羽田空港_(大田区)
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この項目では、東京都大田区の町名について説明しています。空港については「東京国際空港」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 東京都 > 大田区 > 羽田空港 (大田区)

羽田空港
町丁
東京国際空港
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度32分58秒 東経139度46分47秒 / 北緯35.549436度 東経139.779839度 / 35.549436; 139.779839
日本
都道府県 東京
特別区 大田区
地域蒲田地域

人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[1]
 人口0 人
 世帯数0 世帯

面積[2]
 14.445971254 km²
人口密度0 人/km²
郵便番号144-0041[3]
市外局番03(東京MA[4]
ナンバープレート品川
ウィキポータル 日本の町・字
ウィキポータル 東京都
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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羽田空港(はねだくうこう)は、東京都大田区町名。現行行政地名は羽田空港一丁目から羽田空港三丁目。郵便番号は144-0041[3]

現在は東京国際空港(通称:羽田空港)及び関連施設の敷地が多くを占めるが、かつては穴守稲荷神社(GHQの用地撤収により、現在は羽田へ移転)や羽田穴守海水浴場(明治44年開設)を中心とした首都近郊の一大観光地として知られた。
地理

大田区の沿岸部に所在し、多摩川を挟んで神奈川県川崎市川崎区浮島町殿町海老取川を挟んで羽田羽田旭町東糀谷大森南京浜運河東京湾を挟んで昭和島京浜島城南島令和島などと接する。
河川

多摩川

海老取川

京浜運河

歴史「鈴木新田 (大田区)」、「羽田町」、「東京国際空港」、および「穴守稲荷神社」も参照
鈴木新田

今の羽田空港一丁目・二丁目付近にあたる地域は「羽田浦」などと呼ばれ、元禄天明の頃にはが一面に密生した干潟であった[5]。此地の眺望、最も秀美なり。東に滄海満々として旭日の房総の山に掛かるあり、南は玉川泥々として清流の冨峯の雪に映ずるある。西は海老取川を隔てて、東海の駅路あり、往来絡繹たり、北は筑波山峨々として、飛雨行雲の気象萬千なり。此島より相州三浦浦賀へは、午に當たりて海路凡そ八九里、南総木更津の港へは巳に當たりて海路八九里、南北総の界は卯に當たりて海路十三里計りを隔てたり、冨峯は西の方に見ゆ ? 『江戸名所図会』より(文化五年十二月)十七日、空くもりて日の出るを見ず。巳の時ばかりにやどを立ちいづ、野羽織半天を服し股引を穿ち草鞋をつく。六郷のわたりをこえて、八幡塚村の内ところどころ堤のくづれたる所おさむべきために、名主案内して、間棹をもて丈量す。 雑色村より羽田村までの道あししとて、日よけ船にのりゆく。ややありて猟師町にいり、羽田の方にむかふ。蝦取橋といふを渡りて、羽田の弁天の前なる棚橋をわたり、社に入る。 玉川弁財天といふ額を掲ぐ。ここは要島といふ所なり。別富を金生山龍王院といふ。年頃此神の宮居を遠くのぞみて一度もまうづる事なし。今日はからづもここに来れるを思ひて、白銀一つぶをささぐ。宇賀神の小祠あり、御穴宇賀神といふ。ここに常燈籠の高きありて、入来る船の目じるしとせしも、近頃はたえて、そのかたばかりを残せり ? 『調布日記』より

当時の羽田一帯は、江戸近郊の漁師町として栄え、東に江戸湾を隔てて房総諸山を望める海浜の地であり、西には富士山を仰ぎ、南は多摩川に接し、北には品川越しに江戸市中を目にすることができる風光明媚な土地であった[6]

武蔵国荏原郡羽田猟師町で代々名主をしていた鈴木彌五右衛門という人物がいた。この彌五右衛門は羽田浦の東方にある干潟に目をつけ、その数町歩にわたる干潟を埋め立てて、新しい田畑を開発することにした[7]

そこで彌五右衛門はこの干潟を羽田村の名主石井四郎右衛門より譲り受けて、この干潟に堤防を作って開墾を始めた。この際、彌五右衛門は猟師町の名主職を嗣子に譲り、 自ら移り住んで開拓に取り組んだという。1815年文化12年)頃には、近在農村の分家層でとくに大森村からの出百姓らが居住するようになり、新田としての形態が整えられた[8]。この開墾事業は無事に成功したが、東京湾多摩川に面する埋立地という環境のため、常に高潮洪水などの水害の危険を孕んでいた土地であった。そのため彌五右衛門は、作物を植えるところは高く土を盛り、また堤防を強くするために数千本のの木を植えることにした。この松の防潮林は、その後成長すると、沖から眺めると非常に美しい景観となった。それでこの地は、その地形から「扇ヶ浦」とか、元々一つの小さな島があったことから「要島」と人々から呼ばれるようになる。また、彌五右衛門は堤防のほとりに小さなを建て、毎年の五穀豊穣と海上安全の守護を祈願し、地主神として、稲荷大神を祀ることにする[9]

1829年文政12年)、この開墾地は羽田猟師町から分かれて「鈴木新田」と名付けられた。その後、羽田村・羽田猟師町・鈴木新田の三集落を合わせて「羽田三ヶ村」といわれるようになった[7]

文政の末あるいは天保の初め頃、襲来した大暴風雨津波によって、堤防の土手の横面に大穴が開き、海水が侵入して、懸命に丹精した田圃もまさに荒廃する危険に直面した。その様子を監視していた農夫はすぐさま名主の彌五右衛門に知らせると共に、法螺貝を吹き、篝火を焚いて、五十余名におよぶ農民たちで、鋤や鍬などの農具を持ち集まると、彌五右衛門の指揮の下、死力を尽くしてその土手を守った。その甲斐もあって、海水の侵入を免れることができた[10]。しかも、その後は全く水害に遭わなくなり、凶年の兆しも見えず、一帯は良質な田園地帯となった。これは農民たちの努力のためばかりではなく、神の助けがあったに違いないという声が出て、それはおそらく土手上の祠に祀られた稲荷大神の神徳と人々に考えられるようになった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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