羽田健太郎
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羽田 健太郎
別名ハネケン
生誕1949年1月12日
出身地 日本 東京都北区
死没 (2007-06-02) 2007年6月2日(58歳没)
東京都新宿区
学歴桐朋学園大学卒業
職業ピアニスト作曲家編曲家
担当楽器ピアノ
活動期間1971年 - 2007年
事務所日本テレビ音楽オフィス・トゥー・ワン
ポータル クラシック音楽

羽田 健太郎 (はねだ けんたろう、1949年1月12日[1] - 2007年6月2日) は、日本ピアニスト作曲家編曲家
プロフィール

1949年東京都生まれのピアニスト、編曲家、作曲家。東京音楽大学客員教授。桐朋女子高等学校音楽科(共学)から桐朋学園大学音楽学部ピアノ学科卒業。有賀和子井口基成など、業界では特にスパルタで知られる高名な教育者たちに師事。長女は宝塚歌劇団出身の声楽家でショップチャンネルのキャストも務めた羽田紋子(現在、有限会社羽田音楽事務所代表取締役)孫はサクソフォン奏者の羽田ありあ。

その活動分野はクラシックポップスフュージョンなど多岐にわたり、劇伴音楽の作曲においても『西部警察 PART-II』や『渡る世間は鬼ばかり』のテーマ曲などが広く知られる。2001年4月から2007年5月にかけてはテレビ朝日系列の音楽番組『題名のない音楽会21』の司会を務めるなど、タレント司会者としても活動し、ハネケンの愛称で親しまれた。
来歴

3歳でピアノを習い始め、4歳のときに他人との協調性を学ばせるため、祖父の意見で東京少年少女合唱隊に入れられた。北区立王子小学校では歌手小川知子と6年間同級生であった。

小学校2年の時にピアノを田鎖直江に師事。7か月後に安藤たかに師事。安藤には3年間師事した。その後志田芳久に師事する。志田は当時北区立王子小学校の音楽教師であった。中学2年の進路相談で「音楽学校へ進みたい」と意志を明らかにし志田の知り合いの有賀和子(桐朋学園大学名誉教授)を紹介してもらう。田鎖、安藤、志田はいわゆる「町のピアノ教師」であり本格的な専門教育者ではない。羽田は中学2年生まで本格的な専門教育を受けていなかった。

1歳で銀行員の父を結核で亡くし、その後住宅会社に勤める母親と祖父によって育てられた。有賀との初めてのレッスンで羽田はチェルニー50番を弾いた。それを聴いた有賀は「(桐朋高校受験は)間に合うかしらね。あと一年半で……」と一言感想を漏らした。当時練習していたチェルニー50番をチェルニー30番へと戻され、基礎から学びなおすことになった。当時の羽田には相当なカルチャーショックであった。高校受験の自由曲はシューマンのノヴェレッテでビリから2番目の成績で合格した。

高校1年生の時に羽田の母親がグランドピアノを購入し、防音のために家を改築する。羽田は有名になった後も終生このピアノを大切に使った。この年の夏休みに一日12時間もの猛練習で急速に実力を伸ばした。これは有名なピアニストの伝記を羽田が読んでヒントを得たもので、『徹子の部屋』で語ったところによれば、「片手ずつゆっくりさらい、完全に出来るようになったら片手ずつ速くさらい、それができたら今度は両手でゆっくりさらい、それが完全にできるようになったら、最後に両手で速くさらう」という地道なものであったが、これを実際に実行すると長い練習時間を必要とする。

大学に進学した1967年、有賀の勧めもあり、第36回日本音楽コンクールを受けるが第1次予選で落選。その後大学には内緒でホテルのラウンジでピアノを弾くアルバイトをして実演の経験を積んだ。これが後に受けるコンクールでの舞台度胸や実演の経験として功を奏した。

大学4年の時に第39回日本音楽コンクールピアノ部門第3位入賞。入賞曲はベートーヴェンピアノ協奏曲第4番。大学のピアノ科を首席で卒業、卒業試験では最高点を取り桐朋音楽賞を受賞した。

桐朋音楽大学卒業後、師匠の有賀に今後の進路を問いただされると羽田は軽音楽の道に進みたいと意思表示した。アメリカジュリアード音楽院への留学を考えていた有賀からは「私の弟子だったということは決してプロフィールには書かないで」と事実上の破門を言い渡された。羽田はクラシックピアニストの現状が非常に厳しいことを認識しており、苦労をかけてきた母親に一刻も早く恩返ししたいという思いもあった。また在学中からアルバイトで弾いていた時点で軽音楽が流行していたため、そこに活路を見いだしていた。

在学中に映画音楽『ある愛の詩』のレコーディングで、急遽ピアニストの代役を頼まれ、そこで実力を高く評価されていたが、当時は学生であったため活動は自粛し、大学卒業後に正式にスタジオミュージシャンとしての活躍を開始。この頃、大野雄二らにジャズ・ピアノを師事する。

スタジオ・ミュージシャンとしては、音大のピアノ科を卒業したクラシック出身で、高度なテクニックを持つ人材が貴重だった事から非常に重宝され、朝から晩までスタジオにこもり、次から次へと録音をこなしていった(そしてこなせるだけの高い技術があった)。著書によれば、当時のサラリーマンの月給を2日で稼げるほど売れっ子だった。羽田の回想によれば、金は要らないから休ませて欲しいと思うほど、当時は仕事が次から次へと回ってきた。スタジオ録音全盛期の時代と、羽田の活躍の時期が重なったことは幸運であった。

1978年から1980年頃はシンガーソングライター渡辺真知子バックバンドリーダーを務めていたことがあり、彼女の初期のアルバムでピアノを弾いているのも羽田である。同時期アリスのバンドリーダーも務めている。又、沢田研二の『勝手にしやがれ』、山口百恵秋桜』、小坂明子あなた』、久保田早紀異邦人』、西田敏行もしもピアノが弾けたなら』、中島みゆき時代』、谷村新司群青』等のレコードに録音されているピアノ演奏は全て羽田によるもので、こういった当時の人気歌手のLPのピアノ演奏は殆どが羽田がスタジオミュージシャン時代に録音したものであると言っても過言では無い。

アニメやドラマの劇伴の世界でも羽田はその存在を広く知られた作曲家でもある。1978年放送のアニメ『宝島』をはじめ、日本アニメ大賞音楽賞を受賞した『超時空要塞マクロス』の他、『ムーの白鯨』『スペースコブラ』『宇宙戦士バルディオス』『科学救助隊テクノボイジャー』『名探偵ホームズ』等、多数のアニメの作曲、編曲を手掛けている。『宇宙戦艦ヤマト』では、『symphony of the Aquarius』や劇中の作編曲以外に、本格的なクラシックからなる交響曲を35歳の時に描いている。『交響曲宇宙戦艦ヤマト』は、1984年NHK交響楽団によって五反田簡易保険ホールにて初演されているが、当時のインタビューで羽田は、プロデューサーである西崎義展から打診があり、「35歳の今日までのあらゆる作品の中で最高の物、つまり私の人生の半分におけるうちで最高作品に成り得た」と自ら語っている程この作品に懸ける羽田の強い思いがうかがえる。


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