羽田事件
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羽田事件
第一次羽田闘争における穴守橋。弁天橋には中核派が、稲荷橋には革マル派が向かい、それ以外の学生や反戦青年委員会は穴守橋に集まった。機動隊装甲車を盾にして学生の反対側に陣取ったため、装甲車に火が入って抑えようもなかった。この配置は3つの橋のいずれでも同じだった。
場所東京都大田区羽田空港
標的佐藤栄作内閣総理大臣東京国際空港
日付1967年昭和42年)10月8日11月12日
概要日本の新左翼暴動事件
原因ベトナム反戦運動学生運動の興隆
攻撃側人数約2,500人
武器棍棒角材砕石ガソリン
死亡者1名(京都大学学生山崎博昭
負傷者警察官840名、学生17名、一般人5人(第一次)
被害者近隣住民等
損害家屋及び警察車両等
犯人中核派社学同社青同解放派革マル派構造改革派の学生を中心とした集団
動機佐藤栄作内閣総理大臣外国訪問阻止
防御者警視庁機動隊
対処放水、警棒、催涙ガスの使用
謝罪なし
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羽田事件(はねだじけん)とは、1967年(昭和42年)10月8日11月12日に、日本東京都大田区佐藤栄作内閣総理大臣の外国訪問阻止を図った新左翼東京国際空港(以下、羽田空港)を防衛する機動隊が衝突した事件である。新左翼側はこの事件を羽田闘争と呼び、特に10月8日の第一次羽田闘争を10.8(ジッパチ)と称して特別視している。

この事件で確立した、ヘルメットゲバヘル)に角材ゲバルト棒)という武装闘争の装いや党派ごとに運動に参加するという行動様式は、1970年台前半にかけての新左翼党派による実力闘争(暴動)に引き継がれていく。
第一次羽田事件
経過

佐藤内閣は、米軍による日本国内にある軍事基地野戦病院などの使用を黙認することでベトナム戦争でのアメリカの軍事行動を間接的に後方支援していた。一方、北爆による民間人被害の拡大やアメリカ国内での反戦運動の高まりを受け、1965年4月にベ平連が発足するなど、戦争協力に対する批判は急進的な学生だけでなく市井にも広まりを見せていた。

そのような最中、佐藤首相による第2次東南アジア訪問が決まった。訪問先にはベトナム戦争の当事国であるベトナム共和国南ベトナム)も含まれていたことから、学生を中心とする新左翼各派は日本によるベトナム戦争への支援及び加担の阻止を名分に「佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争」のキャンペーンを展開した[1]

佐藤首相の外遊初日は1967年10月8日を予定しており、新左翼各派約2300人は前日からそれぞれの拠点[注釈 1]に泊まり込み、角材やヘルメットで武装して翌日の行動に備えていた。このうち中核派が結集していた法政大学に対しては麹町警察署が注意を促し、学生部長から善処する旨の返答があったが、大学側の対処としては構内での乱闘をしないことを確認したのみで、武装解除等の成果はなかった[2]

翌8日、各派は拠点を羽田空港に向けて出発し、そのうちの一部が鈴ヶ森出入口から首都高速羽田線に乱入した。集団は投石や角材により警察部隊を攻撃しつつ羽田空港を目指し、殴り倒した機動隊員を高架から投げ落とそうとするなど暴力的であった。集団は誤って空港と逆方向に進んだが、空港にたどり着かないことから、前方を行く退却する機動隊員に空港はどっちか問うと反対方向だと返答された。しかし学生は、機動隊の言葉を空港から遠ざけるための嘘と疑い、通りかかった観光バスを止めて乗っていたバスガイドに道を確認して漸く誤りに気づいたが、増援の機動隊に追いつかれて高速道路を降りて再度空港へ向かった[4][3][5]

一方、残りの勢力は一般道路から空港を目指したが、空港の入口となる海老取川に架かる3つの橋(穴守橋・稲荷橋・弁天橋)に車両や有刺鉄線によるバリケードを築いて封鎖していた警視庁機動隊と行き当たった。新左翼各派はこの阻止線の強行突破を試み、付近の歩道の敷石を剥がしてこれを砕いて投石を行うとともに、棍棒や角材を用いて機動隊を襲撃した。機動隊も即座に警棒で応戦したが、現在に比べて装備が貧弱であった機動隊は、激しい投石を受けて橋の上に並べて配置していた車両(阻止車両)を盾に後退を余儀なくされた[注釈 2][2][3][5]

機動隊は、放水警備車からの放水による防戦を継続したが、殺到する集団を防ぎきれず、学生らは阻止車両に取り付いた。梯子で警備車の屋根に上った者や橋の袂にいる者からの投石を一方的に浴び、後退した機動隊は更に多くの負傷者を出すこととなった[2]。なお、この様子を取材していた外国人記者らに対しても「あいつはアメリカ人じゃないか!」と叫ぶ学生らから投石が行われた[6]。橋から転落する者も出る激しい攻防が行われていた最中、弁天橋において機動隊員が退避した警備車兼給水車がキーを差したままになっているのを見つけた学生がこれに乗り込み、周囲の警備車を押しのけて空港への突入口を開こうと暴走させた。午前11時27分ごろ、中核派の京都大学学生である山崎博昭が学生らが後退した橋に倒れているのを警官らが発見。警官3人が抱き上げて、救急車まで搬送したが[6]、死亡が確認された[注釈 3][5]

死者が出る事態を受け一時休戦となり、しばらく海老取川を挟んで双方対峙したが、午後1時15分に機動隊から催涙ガス使用の旨警告が出され、同20分に催涙ガス弾を投擲し、ひるんだ学生らに対し機動隊が警棒で次々と逮捕・排除していった。学生らは午後2時半から近くの公園で抗議集会を開き、午後3時過ぎに現場は沈静化した。日本の警察催涙ガスを使ったのは血のメーデー事件、60年安保闘争に次いで3回目であった[6][7][3][8][9]
結果

機動隊は羽田空港の防衛自体には成功し、佐藤首相は予定通り午前10時半頃に、外遊に向けて特別機で羽田空港を飛び立った(なお、その時間帯に最も激しい攻防が行われていた)。


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