羽生善治
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 羽生 善治 九段
竜王就位式にて(2018年)
名前羽生 善治
生年月日 (1970-09-27) 1970年9月27日(53歳)
プロ入り年月日1985年12月18日(15歳)
棋士番号175
出身地埼玉県所沢市[web 1]
所属日本将棋連盟(関東)
師匠二上達也九段
永世称号永世竜王(資格)
十九世名人(資格)
永世王位(資格)
名誉王座(資格)
永世棋王(資格)
永世王将(資格)
永世棋聖(資格)
名誉NHK杯選手権者[注釈 1]
段位九段
棋士DB羽生 善治
戦績
タイトル獲得合計99期(歴代1位)
一般棋戦優勝回数46回(歴代1位)
2024年4月11日現在
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羽生善治
日本
タイトルFIDE Master
FIDEレート2399(2020年11月)
最高レート2415(2015年1月)
ランキング3193位(2020年11月)
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羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、日本の将棋棋士である。二上達也九段門で棋士番号は175。埼玉県所沢市出身。日本将棋連盟所属で2023年6月9日付をもって日本将棋連盟会長に就任(現職)[1]

1985年に中学生でプロ棋士となり、1989年、初タイトルとして竜王位を獲得した。1996年2月14日将棋界で初の全7タイトル(竜王、名人王位王座棋王王将棋聖)(当時のタイトル数は7[注釈 2])の独占を達成した。

2017年12月5日第30期竜王戦で15期ぶりに竜王位を獲得し、通算7期の条件を満たして永世竜王の資格保持者となり、初の永世七冠(永世竜王十九世名人永世王位名誉王座永世棋王永世王将永世棋聖)を達成した。さらに名誉NHK杯選手権者の称号を保持しており、合計8つの永世称号の保持も史上初である[注釈 3]。このような実績により、2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を授与された[web 2]

2018年度(2019年)の第68回NHK杯で優勝し、同大会優勝回数を11回に更新の上、一般棋戦(タイトル戦以外のプロ公式戦)の通算優勝回数が大山康晴を超え史上最多の45回となった。

通算優勝回数153回、公式戦優勝回数145回、タイトル獲得99期、タイトル戦登場138回、同一タイトル戦26回連続登場(王座)、同一タイトル獲得通算24期(王座)、一般棋戦優勝回数46回は歴代単独1位の記録である。また、非タイトル戦優勝回数54回、非公式戦優勝回数8回、最優秀棋士賞22回、獲得賞金・対局料ランキング首位23回も歴代1位である。詳細は主な成績を参照。

羽生とほぼ同じ年齢には森内俊之(十八世名人資格保持者)や佐藤康光(永世棋聖資格保持者)らトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。
プロデビューまで

埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住んだ[book 1]

小学1年生のとき、近所に住む同級生から将棋のの動かし方を教わった[book 1][注釈 4]
八王子将棋クラブ

小学2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が、将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)[book 1]。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになった[book 1]。家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた[book 1]

道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった[book 1](15級とも)。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年生の時に初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり[book 1]、いわゆるアマチュア強豪のレベルとなった。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による「連合軍」と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった[book 1]
将棋大会

1979年、小学3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする[book 1]。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である赤ヘルを被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)[book 1][book 2]

1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝を果たした。このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている[book 1]。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった[book 3]。同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過[book 1]。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する[book 1]
奨励会

小学5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)[注釈 5]に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた[注釈 6][book 1]。しかし、6年生の春(1982年4月3日)に優勝し条件を満たした。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司だった。母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた[book 1]。小学生将棋名人戦に出演していた大山康晴は、優勝した羽生と谷川を見て将来はこの若い2人が将棋界を引っ張っていくライバルになっていくであろうと番組内で述べている[要出典][注釈 7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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