羽幌炭礦鉄道
[Wikipedia|▼Menu]

羽幌炭礦鉄道
茨城交通(現ひたちなか海浜鉄道)に譲渡された
元羽幌炭礦鉄道 キハ223
湊線那珂湊 2009年11月29日)
基本情報
日本
所在地北海道羽幌町
起点築別駅
終点築別炭砿駅
開業1941年12月14日
廃止1970年12月15日
運営者羽幌炭礦鉄道
路線諸元
路線距離16.6 km
軌間1,067 mm
線路数単線
電化方式非電化
最大勾配16
最小曲線半径200 m
テンプレートを表示

停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例


国鉄羽幌線 1987年廃止


0.0築別 -1987年


2.7五線


4.1七線沢


6.3上築別


9.0曙光


第一築別川橋梁


第二築別川橋梁


第三築別川橋梁


11.1
0.0


国鉄:名羽線


三毛別川


国鉄からの借入:貨物側線扱い


三毛別川


-
3.5
三毛別 羽幌坑積込ポケット


13.3桜ケ丘


第四築別川橋梁


第五築別川橋梁




15.7古賀町


築別坑積込ポケット




16.6築別炭砿

築別川に残る羽幌炭礦鉄道の橋梁 中古品の桁を寄せ集めて架けたため桁高や支間が著しく不揃いなのが特徴

羽幌炭礦鉄道(はぼろたんこうてつどう)は、かつて北海道苫前郡羽幌町炭鉱と鉄道路線を経営していた炭鉱会社であり、鉄道会社である。札幌証券取引所に上場していた。

社名を見ると鉄道が本業であるかに見えるが、本業は炭鉱である。羽幌、上羽幌、三毛別に坑口と選炭設備を有し、羽幌運搬竪坑は、近代的な塔櫓捲(ワインディングタワー・タワーマシーン)形式の竪坑櫓を持ち、日本国内で2024年現在唯一現存するビルディングタワー式の竪坑櫓である。九州の福岡県志免町に現存し、重要文化財に指定された海軍炭鉱の志免竪坑櫓の近代形である。

鉄道路線は自社の羽幌炭鉱から産出される石炭を搬出するために国鉄名羽線(名寄 - 羽幌間)を先行して建設したもので、1941年に開通したが、1970年の炭砿の閉山とともに廃止された。一時期は、国鉄羽幌線気動車が乗り入れ、国鉄車とほぼ同仕様の気動車を保有していた。
概要

羽幌炭鉱(築別炭礦、羽幌坑、上羽幌坑)のあった苫前炭田では1895年(明治27年)頃に鉱区が設定されて採掘が始まったが、適切な運搬手段がなく、大規模な開発には至らなかった。1918年(大正7年)頃に財閥鈴木商店(日商岩井の前身、現在の双日)が一帯の鉱区を買収した。鈴木商店が金融恐慌により1927年(昭和2年)に清算されてからも、同社傍系の太陽曹達(1939年(昭和14年)太陽産業に改称)が所有し、1931年(昭和6年)頃より開発に着手した。

当時、国鉄羽幌線留萠より順次開業し、1932年(昭和7年)9月には羽幌まで到達しており、さらに北上を続ける予定であった。太陽曹達は羽幌鉄道を設立し、1938年(昭和13年)に国鉄駅予定地の築別一線(築別)と築別本流(築別炭鉱)を結ぶ17.2kmの本線、および途中の曙より三毛別を経由して上羽幌に至る10kmの支線を含む鉄道敷設免許を申請した。このうち、曙 - 上羽幌間は鉄道省予定線「天塩国名寄ヨリ石狩国雨龍ヲ経テ天塩国羽幌ニ至ル鉄道」と競合することから除外され、1940年(昭和15年)5月に築別 - 築別炭鉱間の免許を受けた。

1939年秋には運炭道路建設の名目で路盤工事に着手したようで、突貫工事が進められた。戦時体制下の資材確保は困難で、橋梁などは改修工事で不要となった各地の中古品を購入して使用し、北海道帝国大学工学部に標本として貸与されていた1898年製の古典機関車を鉄道省より譲り受けるなどした。また、客貨車の入手が間に合わず、開業より2か月間は鉄道省よりハフ4715とワフ2966を借り入れた(竣功監査報告より)。1941年(昭和16年)12月9日の羽幌線羽幌 - 築別間開通直後の12月14日に営業を開始したが、時に太平洋戦争開戦6日後のことであった。この間、1940年(昭和15年)7月に太陽産業(株)羽幌礦業所は羽幌炭鉱(株)と改称、さらに1941年3月、羽幌鉄道が羽幌炭鉱を吸収して羽幌炭礦鉄道となっている。

戦後は上羽幌坑と羽幌坑(三毛別)の開坑により出炭量が増加して沿線人口も増えた。1958年(昭和33年)から気動車の運行を開始して貨客分離に努め、国鉄定期列車に併結して羽幌駅まで乗り入れを行った。1962年(昭和37年)12月には工事中の国鉄名羽線(羽幌 - 朱鞠内間51.2km)のうち、軌条工事が完了した曙 - 三毛別間3.8kmで国鉄非営業線運送という異例の取扱いにより運炭列車が走り始めた[1]。羽幌本坑にビルディングタワータイプの最も新しいタイプであるワインディングタワー式竪坑櫓を持つ運搬竪坑が竣工し、この羽幌坑の設備増強により年間40万トンの出炭が可能となったことを受けて、自社の動力車(乗務員含む)を使用して運行し、運送対価として曙 - 三毛別間運送原価に見合う相当額(1トン当たり57円)を国鉄が会社より収受するというものであった[1]1964年(昭和39年)に名羽線が日本鉄道建設公団に引き継がれると、国鉄が公団と協定を結んで同区間の有償貸付(貸付料金年間545万1000円)を受ける形で運行が継続された[1]。この区間は前述のように曙 - 上羽幌間が鉄道省予定線との競合により除外された後も、羽幌坑開発に合わせて1949年(昭和24年)3月に曙 - 三毛別4.0kmの構外側線敷設認可を得ながらも建設中止となった経緯があり、会社としては悲願の運行であった。

当時は車掌は男性駅員が交代で務めていたが、1960年代に入ると後述するキハ22形の導入に合わせ、全国初となる女性の車掌専門職員を採用し乗客からも好評を得た[2]。貨物・旅客とも飛躍的に輸送量を伸ばし、1969年(昭和44年)にはディーゼル機関車を導入した。

出炭量は電力用や暖房用を中心に年産100万トンを超え、国内有数の優良鉱として近代化も進んでいたが、1970年(昭和45年)9月1日、会社は札幌地方裁判所会社更生手続開始申立書を提出した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef