羽仁説子
[Wikipedia|▼Menu]

はに せつこ
羽仁 説子
『声の人物評』(日本週報社、1960年)
生誕1903年4月2日
日本 東京府
死没 (1987-07-10) 1987年7月10日(84歳没)
職業教育評論家
配偶者羽仁五郎
子供羽仁進
羽仁協子
テンプレートを表示

羽仁 説子(はに せつこ、1903年4月2日 - 1987年7月10日)は、日本教育評論家社会運動家。息子は映画監督の羽仁進、娘は羽仁協子
来歴婦人民主クラブの中心メンバー(1946年撮影)。前列左から一人おいて、加藤シヅエ厚木たか宮本百合子佐多稲子櫛田ふき、羽仁説子。後列左から一人おいて、関鑑子、藤川幸子、山室民子

羽仁吉一羽仁もと子の娘として東京に生まれる。自由学園を卒業、『婦人之友』記者、自由学園教授などを務める。森五郎(羽仁五郎)と結婚。

1945年11月、羽仁、加藤シヅエ宮本百合子佐多稲子山本杉赤松常子山室民子松岡洋子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始[1]。準備会が重ねられ、1946年3月16日、「婦人民主クラブ」の創立大会が神田共立講堂で行われた[1][2][3]。初代委員長には松岡が就いた[4]

1952年、日本子どもを守る会の発足に参加、1958年 - 1988年同会第2代会長。中産階級的リベラリズムの立場にたち、女性運動、児童福祉、性教育などに活動、発言した。

1960年に行われた参議院千葉県補欠選挙に無所属で立候補するが落選した。

1962年4月14日、安保闘争に関わった女性たちによって「日本婦人会議」が設立され[5]、議長には羽仁、田中寿美子松岡洋子岸輝子深尾須磨子高田なほ子、野口政子、田所八重子ら8人が就任した[6]

同年10月19日、羽仁、平塚らいてういわさきちひろ野上弥生子岸輝子桑沢洋子櫛田ふき深尾須磨子壺井栄ら32人の女性の呼びかけにより「新日本婦人の会」が結成された[7][5]

進歩的文化人として活躍した羽仁だったが、戦時中は「女性にとって協同生活への関心は天性のものである。扶けることの喜びを無上の幸福とする心、それはわが子、わが夫のために犠牲となることの出来る心である」(昭和十九年三月『教育』誌掲載)、「赫々たる皇軍の戦果が伝えられるたびに私ども女性は深く思いをめぐらして祖国の明日のために、大いなる国力を貯えねばならないという責任をひしひしと感じます。それが戦いの庭にたたぬものの使命であると信じます」(昭和十七年四月『愛情』誌掲載「大東亜戦争下に於ける婦人の使命」)という発言をしていた。羽仁に対し、『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』(全貌社、昭和32年)は「女性の犠牲心を説いた婦人評論家」という副題を付けている。

説子は五郎と結婚する前に、肺を病む男性を慕っていたが、母のもと子の説得(「母の激しい干渉」)により彼との仲を断念する。この失恋について作家の森まゆみは、「娘は母との激しい葛藤を経て自立していくが、説子にもそうした時期があったことを知って、筆者は納得と安堵を感じる。説子があの影響力の強い、カリスマである母もと子から別れ、自由学園という事業を継承せず、評論家として自立したことはそういう経緯があったからだろう」と記している[8]

1987年7月10日、死去。墓所は雑司ヶ谷霊園
著書

新しき日のために (藤花書院, 1947年)

女性のたたかいに 現代女性はなにをなすべきか (日新書院, 1948年)

シーボルトの娘たち (創生社, 1948年)

愛情と幸福とともに (住吉書房, 1949年)

性教育読本 (世界評論社, 1949年)

女性のための政治論 (三元社, 1949年)

青春をどう生きるか (大日本雄弁会講談社, 1950年)

婦人読本 (実教出版, 1950年)

ナースと読書 (医学書院, 1952年)

生活の科学 (要書房, 1953年)

新しい女性の生き方 (河出新書, 1953年)

母はヨーロッパに 東京の娘への手紙 (光文社, 1954年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:15 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef