羽仁五郎
[Wikipedia|▼Menu]

.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}羽仁 五郎(はに ごろう)
人物情報
別名森 五郎(もり ごろう)
生誕 (1901-03-29) 1901年3月29日
死没 (1983-06-08) 1983年6月8日(82歳没)
学問
活動地域群馬県桐生市
研究分野マルクス主義歴史学歴史哲学現代史
研究機関東京大学史料編纂所日本大学
主要な作品『明治維新史研究』(1956年)
『都市の論理』(1968年)
影響を受けた人物リッケルトクローチェ
学会日本学術会議議員
テンプレートを表示

羽仁 五郎(はに ごろう)
出身校東京帝国大学文学部国史学科
所属政党無所属
配偶者羽仁説子
参議院議員
選挙区全国区
在任期間1947年(昭和22年) - 1956年(昭和31年)
テンプレートを表示

羽仁 五郎(はに ごろう、1901年明治34年)3月29日 - 1983年昭和58年)6月8日)は、日本歴史家マルクス主義歴史学歴史哲学現代史)。参議院議員。日本学術会議議員。
略歴父親の森宗作1922年、ハイデルベルクの大峽(大巌)秀榮のアパートでオイゲン・ヘリゲルと日本人留学生たち。左から後藤富夫、藤田敬三、花戸龍蔵、大峽、ヘリゲル、三木清、羽仁五郎、熊代猪三雄、小尾範治

旧姓は森。群馬県桐生市出身。生家は近江商人ルーツに持ち、地元桐生で桐生織物を取り扱う有力な織物仲買商(現在の森合資会社)であり、父の森宗作(初代森宗作の養子で、2代森宗作、大正14年隠居後は森宗久)は、第四十銀行の創立者で初代頭取、舘林貯蓄銀行頭取、などを務めた。兄晋一郎は森家を継いで3代森宗作を襲名(桐生商工会議所初代会頭)、その次男(羽仁五郎の甥)は世界で初めてシイタケの人工栽培法を発明した農学者森喜作。戦後山形大学学長を務めた森平三郎は羽仁五郎の三番目の兄である。

1913年(大正2年)、桐生北尋常小学校卒業。同年東京に上京して、東京府立第四中学校に入学。厳しい規則と詰め込み主義の学校を批判し、停学処分を受けるなどした。1918年(大正7年)旧制第一高等学校独法科入学、さらに1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部に入学。数ヶ月後に休学し、同年9月、ドイツで歴史哲学を学ぶため出国。1922年(大正11年)4月、ハイデルベルク大学哲学科でリッケルトに歴史哲学を学ぶ。留学中、糸井靖之・大内兵衛三木清と交流し、現代史・唯物史観の研究を開始。「すべての歴史は現代の歴史である」というベネデット・クローチェの歴史哲学を知り、イタリア旅行中に生家を訪れるも扉を叩かず。しかし、生涯在野の哲学者であったクローチェの影響を色濃く受けた。1924年(大正13年)、帰国し、東京帝国大学文学部史学科に入る。

1926年(大正15年)4月8日羽仁吉一もと子夫妻の長女説子と結婚。「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、森姓から羽仁姓となる。1927年(昭和2年)、東京帝国大学卒業[1]同大史料編纂所に嘱託として勤務。1928年(昭和3年)2月、日本最初の普通選挙で応援演説をしたことで問題となり辞職。同年10月三木清小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊。1932年(昭和7年)、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。1933年(昭和8年)9月11日治安維持法容疑で検束。留置中に日本大学教授を辞職。強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放。その後、『ミケルアンヂェロ』その他の著述で軍国主義に抵抗し多くの知識人の共感を得た。中でも『クロォチェ』論は特攻隊員の上原良司の愛読書となり遺本ともなった。1945年(昭和20年)3月10日北京憲兵に逮捕され、東京に身柄を移され、敗戦は警視庁の留置場で迎え、10月4日の治安維持法廃止を受けてようやく釈放された。1947年(昭和22年)、参議院議員に当選[2]し、1956年(昭和31年)まで革新系議員として活動。国立国会図書館の設立に尽力する。日本学術会議議員を歴任。

マルクス主義の観点から、明治維新ルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し『都市の論理』はベストセラーとなった。1983年(昭和58年)、肺気腫のため死去[3]。墓所は雑司ヶ谷霊園

息子は、映画監督羽仁進(その元妻は女優の左幸子)、孫が羽仁未央。娘は音楽教育家の羽仁協子。甥にしいたけの人工栽培を発明した農学者森喜作

晩年は家元制度打倒を唱える花柳幻舟を事実上の愛人としていた。羽仁は花柳を「ぼくのガールフレンド」と呼んでいた[4]

生家の森合資会社事務所、森合資会社店蔵、森家住宅石蔵は国登録有形文化財[5]。戦後、横須賀市秋谷に移住し、自宅は1966年竣工の吉村順三設計の住宅で2015年12月から宿泊施設HAYAMA Funny house として活用されている[6]
エピソード

国立国会図書館法前文の「真理がわれらを自由にする」という文言は、羽仁がドイツ留学中に見た大学の銘文を基に入れたもので、新約聖書ヨハネによる福音書に由来する[7]

1967年4月20日、午後1時に大講堂で日本大学経済学部の新入生歓迎会をしている最中に、講師に招かれた羽仁の講演を体育会学生と応援団が乗り込み妨害した。執行部学生に暴行を加え、歓迎会の解散を認める署名を強制した。羽仁に対して、ヤジや罵声は収まるどころか、いっそう増し、「アカ」、「ジジイ引っ込メ」などの罵声を受けた。羽仁は演壇上に立ち往生し、身の危険を感じて退避したが、歓迎大会は完全に破壊された[8]


作家の森まゆみは、「1968年、我が家の近くの東京大学で学生運動が激しかった頃、白いタートルネックにチェックのジャケットを着てステッキをついた洒脱なおじいさんが、よく全共闘の学生と対話していた。その人、羽仁五郎の『都市の論理』は、その時代のベストセラーだった」、羽仁の『ミケルアンヂェロ』を高校生の時に読んだとき、「口絵のダヴィデ像、そして「語るならば、低くかたれ」という言葉に、胸が熱くなったのを思い出す」と記している[9]

三里塚闘争への支援も行い、現地を2回程訪問し、三里塚芝山連合空港反対同盟へメッセージを送って激励している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:95 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef