義経_(小説)
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この項目では、司馬遼太郎の小説について説明しています。宮尾登美子の同名小説については「義経 (NHK大河ドラマ)」をご覧ください。
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『義経』(よしつね)は、司馬遼太郎歴史小説平安時代末期、天才的な軍才で平氏を滅亡に追い込み、源氏再興のきっかけを作った源義経の生涯を描く。

オール讀物』誌上で、1966年(昭和41年)2月号から1968年(昭和43年)4月号まで連載された。連載時のタイトルは『九郎判官義経』。
概要

源氏の棟梁・源義朝の子として生まれながらも保元平治の乱の敗亡によって艱苦の日々を送った幼少期、治承・寿永の乱(いわゆる「源平合戦」)の勃発により兄・頼朝の軍勢に加わって一躍歴史の表舞台に登場し、一ノ谷屋島壇ノ浦の戦いなどで華々しい戦果をあげたものの、頼朝との確執によって討伐されるまでを描く。

司馬は義経を、個々の武者のぶつかり合いでしかなかった合戦を部隊という集団同士の戦いと解釈した日本で最初の人物とし[1]、また騎馬武者を純然たる騎兵部隊としてその機動力を活用する戦術を編み出したことを「近代戦術思想の世界史的な先駆をなした」と評している[2]。その一方で幼稚と言っていいほどに政治感覚がなく、おおよそ子供じみた情念をもってしか世を見ることができずに頼朝の不興を買い、ついには討伐されるという運命を辿ったその鈍感さを「信じられぬほどに痴呆な政治的無感覚者」としている[3]。しかしながら「判官贔屓」という言葉に象徴されるように現在も続く義経の人気は、そうした彼の漂わせる「儚さ」や「可憐さ」に根ざしているとも述べている[4]

また司馬は、治承・寿永の乱とその後の鎌倉幕府の成立を一種の土地革命であったとしている。律令体制下では土地は原則として官有であり、在郷地主であった当時の武士階級は藤原氏などの有力貴族に運動して荘園といった不完全な形でしか土地を所有できず、自らの開墾地の私有を認められないという理不尽な体制に対する反感は強かった。初の武家政権である平氏政権は武士達の権益の代表者という自覚を忘れて藤原摂関政治を真似るのみであったが、頼朝はそうした武士達の望みを的確に理解して彼らの期待に応え、そのことが一介の流人に過ぎなかった頼朝を一躍関東の覇王に押し上げたと評している[5]
あらすじ

東国の源氏と西国の平氏の二大勢力に分かれて抗争を繰り返した武家も、保元・平治の乱で平氏が源氏を敗亡させたことにより、その相剋に終止符が打たれた。源氏の棟梁である源義朝の子・義経は、生まれてほどなく父の死と家の没落に遭い、不遇の中で成長した。己の出自を知らされることなく京の一画で育てられ寺稚児となるものの、やがて奇縁から自身が常ならぬ血を引く身であることを知る。長じて元服を迎えた義経は京を出奔し、奥州に流れて奥州藤原氏の庇護を受け、八幡太郎義家以来の武門の総帥の末裔としての誇りと平氏への復仇を胸に成長する。平氏の力は棟梁・平清盛の辣腕によっていよいよ強大となり、栄耀驕奢を謳歌した。外孫である安徳帝を擁して宮廷を掌握した清盛は、治天の君である後白河法皇をも押さえ、意のままに権勢を振るった。しかし多くの武士が渇望する所領の私有問題などは一考だにせず、顕職を一門で独占して私益のみを貪る姿は反発を呼び、その暴慢さに対する憤懣は津々浦々で煮えたぎっていた。

法皇の皇子・以仁王が討伐の令旨を下したことをきっかけとして、ついに悪政に対する憤懣が爆発する。以仁王の軍勢はすぐに鎮圧されたものの令旨は全国を駆け巡り、各地で雌伏していた源氏の連枝を盟主として、次々と反乱の狼煙が上がった。伊豆では義朝の正嫡である頼朝が坂東武士達の支持を集めており、血を分けた兄の挙兵を聞いた義経は奥州を飛び出し、その軍に馳せ参ずることとなる。頼朝の旗揚げは成功し、澎湃と集まった軍勢は雲霞の如き大軍となり、慄いた平氏は戦わずして逃げ去るという醜態まで晒した(富士川の戦い)。しかし頼朝は遁走する平氏を追わず、まずは拠点と定めた鎌倉において自らの政権の基盤を固めることに専念した。坂東武士達の自らへの支持が何であるかを明敏に察していた頼朝は、東国を朝廷の支配の及ばぬ独立圏に作り変えることこそ喫緊の課題と考えていた。が、義経はそうした兄の深謀がまるで理解できなかった。清盛も病で急逝した折、千載一隅の機会をむざむざ見逃すのかと疑義を挟み、頼朝の不興を買った。この若者にはおよそ政治感覚というものが無く、まるで置き忘れて生まれてきたかのようにそうした才覚が欠落していた。

やがて信濃源氏の木曾義仲が北陸一帯を平定し、余勢を駆って京へ進撃した(倶利伽羅峠の戦い)。平氏は防衛が困難な京を一時放棄し、義仲は法皇を擁して都を占領する。が、あぶれ者ばかりの義仲の軍は市中で乱暴を繰り返し、京洛はたちまち阿鼻叫喚の巷と化し、法皇はたまらず鎌倉の頼朝に救援を求めた。いまこそ都に乗り込む好機と捉えた頼朝は軍を進発させ、義経も部隊を率いて義仲を討ち取り、初陣を勝利で飾る(宇治川の戦い粟津の戦い)。鎌倉勢は京を制圧するものの、義仲掃討に奔走する間に平氏は体勢を立て直し、捲土重来を窺い京へ攻め込む気配を見せた。要害の地・一ノ谷に張られた平氏の陣営を攻撃するのは非常な難事であったが、義経は騎馬武者をまとめて一部隊を組織し、騎兵部隊の長駆による奇襲攻撃を試み、鮮やかにこれを潰乱させる(一ノ谷の戦い)。多くの将領を討ち取るという大戦果は京洛を沸き返らせたが、しかし鎌倉の反応は冷淡であった。個々の武者同士のぶつかり合いが常識である当時に義経が初めて用いた戦術の価値は認められず、直接兜首をあげたわけでもない義経の功績を讃える者はいなかった。が、ただ一人頼朝のみは義経が何をなしたかを察し、その功の大きさに戦慄した。やがて何の恩賞も得られなかった義経が法皇の厚意で官位を賜ることとなり、その浅慮な行動が頼朝を激昂させる。鎌倉からの奏上なく官位を貰うことは朝廷の序列に入ることであり、そうなれば頼朝の模索する武士による自治政権構想は崩壊しかねない。頼朝は朝廷から隔絶した新たな政治体制を作ろうとしていたが義経はそうした構想を理解できず、鎌倉政権を牽制しようとする法皇にまんまとのせられたのだった。頼朝は在京の代官から義経を解任し、来るべき平氏の追討戦からも外した。義経はただ当惑するばかりで、兄の勘気の理由がまるでわからなかった。


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