義堂周信
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義堂周信
正中2年閏1月16日 - 元中5年/嘉慶2年4月4日
1325年3月1日 - 1388年5月10日
法名周信
号空華道人
生地土佐国高岡
宗旨臨済宗
夢窓疎石[1]
弟子大椿周亨無言昌謹、菊隠中亮、月潭中円、大基中建など
著作『義堂和尚語録』、『空華集』、『空華日用工夫略集』など
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義堂周信(ぎどう しゅうしん)は、南北朝時代から室町時代臨済宗である。「義堂」は道号、「周信」は法名であり、別に「空華道人」とも号する。
経歴

土佐国高岡(現:高知県高岡郡津野町)の生まれ。1338年、14歳で剃髪、はじめ台密を学ぶ、後禅宗に改宗し上京し夢窓疎石の門弟となる。このとき「周信」と安名された。

1359年(延文4年)に幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方足利基氏に招かれて鎌倉へ下向し1380年(康暦2年)まで滞在した。基氏や関東管領上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務めた。この間、臨川寺の五山昇位[2]問題や渡諷経事件[3]の解決に尽力しその公明正大、厳正中立な態度で各方面に感銘を与えた。帰京後、3代将軍足利義満の庇護のもと相国寺建立を進言し、建仁寺住職、1386年には南禅寺の住職となり、等持寺住職も務めた。

春屋妙葩絶海中津と並ぶ、中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧とされる。
遺墨

黄梅院華厳塔勧縁疏(
神奈川黄梅院蔵)重要文化財 至徳4年(1387年

脚注[脚注の使い方]^人名規範資料庫、2019年1月22日閲覧。
^ ともに夢窓疎石の弟子である春屋妙葩と龍湫周沢の昇格争い
^ 円覚寺の仏門教徒、と建長寺の大覚門徒の勢力争い

参考文献

蔭木英雄訳注 『義堂周信』<日本漢詩人選集3>研文出版、1999年

寺田透 『義堂周信 絶海中津』<日本詩人選24>筑摩書房、1977年 

入矢義高校注 『五山文学集』<新日本古典文学大系48>岩波書店、1990年

玉村竹二訳注 『五山詩僧』<日本の禅語録 第8巻>講談社、1978年

関連項目

思想家一覧

五山十刹

京都五山 

鎌倉五山

五山派

外部リンク

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