群馬県立太田高等学校
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群馬県立太田高等学校

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過去の名称群馬県尋常中学校新田分校
群馬県太田中学校
群馬県立太田中学校
国公私立の別公立学校
設置者 群馬県
校訓質実剛健
文武両道
設立年月日1897年(明治30年)4月11日
共学・別学男女別学(男子校)
課程全日制課程
設置学科普通科
学校コードD110210000040
高校コード10122C
所在地373-0033
群馬県太田市西本町12-2
外部リンク公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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群馬県立太田高等学校(ぐんまけんりつ おおたこうとうがっこう)は、群馬県太田市西本町にある県立高等学校
概観

東毛(県東部)に所在する、創立以来の男子校。略称は「太高」(たこう・たたか)。職員やOBの一部は「たこう」と称しているが、近接する群馬県立太田工業高等学校(太工)と区別するため生徒のほとんどは「たたか」と略す。

全日制普通科(男子校)のほか、かつては定時制普通科(男女共学)が設置されていたが、平成19年度卒業生をもって定時制は廃止。現在、全日制は1学年7学級、定員は280名。制服は一般的な詰め襟の学生服に校章の書かれたボタンと襟にOHSと書かれたバッジをつける。

卒業者数は旧制中学校時代を含めると3万人を超える。毎年、東京大学、京都大学、一橋大学、東京工業大学、東北大学などに多数の合格者がある。同窓会は「金山(きんざん)同窓会」と称する。

構内に「稲荷山古墳」と呼ばれる古墳がある[1]
学科

全日制課程

普通科


沿革

1897年明治30年) - 群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)新田分校として、新田郡太田町(現・太田市)長念寺の仮校舎で開校。

1898年(明治31年) - 新校舎落成、現在地(太田市西本町)へ移転。

1900年(明治33年) - 群馬県太田中学校と改称、独立。

1900年(明治33年) - 運動会発足(1905年に校友会に改称)。

1901年(明治34年) - 邑楽郡館林町(現・館林市)に邑楽分校(現・群馬県立館林高等学校)を設置、群馬県立太田中学校と改称。

1902年(明治33年) - 同窓会発足

1904年(明治37年) - 校歌制定(土井晩翠 作歌・楠美恩三郎 作曲)。

1912年(明治45年) - 邑楽分校廃止。

1948年昭和23年) - 群馬県立太田高等学校と改称、定時制を開校し、本校および木崎分校(新田郡木崎町/現・太田市)設置。

1950年(昭和25年) - 邑楽郡大川村(現・邑楽郡大泉町)に定時制大川分校を設置。

1957年(昭和32年) - 大川分校を大泉分校と改称、創立六十周年記念式典を挙行。

1961年(昭和36年) - 木崎分校廃止。

1983年(昭和58年) - 大泉分校廃止。

1987年(昭和62年) - 創立九十周年記念式典を挙行、「太田高校九十年史」刊行。

1997年平成9年) - 創立百周年記念式典を挙行、記念講演に石原信雄を招待、記念誌「金山麓 やまざる流れ」および「学校歌集」刊行。

1998年(平成10年) -定時制課程創立五十周年。記念講演に柳家せん八10代目翁家さん馬を招待。

2007年(平成19年) - 創立百十周年記念式典を挙行、記念講演に宮崎緑を招待。

2007年(平成19年) - 普通教室にエアコン設置。

2008年(平成20年) - 定時制を廃止。

2008年(平成20年) - 創立百十一周年記念式典を挙行、記念講演に宮永博史を招待。

2009年(平成21年) - 創立百十二周年記念式典を挙行、記念講演に大澤正明を招待。

2017年(平成29年) -創立百二十周年記念式典を太田市民会館にて挙行、記念公演、および高座に立川談四楼を招待。記念誌刊行。

校章

三種の神器の一つ、八咫鏡に「太高」(旧制は「太中」)の文字を配す。
校歌

校歌(明治37年制定)は甲・乙があり、いずれも作詞は土井晩翠、作曲は楠美恩三郎が行っている。旧制中学時代の歌詞と現在の歌詞とを比べると「太田中学」が「太田高校」に書き換えられただけである。この校歌は日本で作られた校歌の中で最も古いものとされている。

初代校長の三浦菊太郎が同じ旧制第二高等学校に通っていた土井晩翠、楠美恩三郎に作詞作曲を依頼。土井は一度も太田中学(現太田高校)には来られず、当時の社会科教師新井信示が地図を送り、その地図を参考に作詞した。その後、土井が別件でこの地を訪れた際(昭和17年5月6日)、急遽講演を開催することとなった。講演の際に当時の矢野校長も「土井(どい)晩翠先生」と発音したが、土井本人は「『つちい』と申します。」と言い、生徒たちがどよめいたという。土井によると土井の出身地である東北地方では「つちい」という発音は非常にしづらく「どい」に改名したいうことであった。


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