明石 賢生(あかし けんせい、1947年 - 1996年8月4日[1])は、日本の編集者・実業家・カメラマン。エルシー企画・群雄社出版社長。アリス出版副社長。
自販機本・ビニ本・アダルトビデオといった各時代のエロメディアにおいて活躍した伝説の風雲児として知られる[2]。 1943年大分県生まれ。学生時代は全共闘(ブント系マル戦派)の活動家で、1968年にベトナム反戦運動の一環として闘われた東京王子米軍野戦病院反対闘争では逮捕されたこともある。 在学した早稲田大学は革マル派が牛耳っていたため、マル戦派の明石は暴力や嫌がらせを受けて通学できる状態ではなくなり中退[3]。 下落合[注 1]のスナック「クレジオ」で雇われ店長[3]を3年間務め、常連客の赤塚不二夫、平野甲賀、及川恒平、八木眞一郎
経歴
スナックの客の紹介で三崎書房の別名義エド・プロダクツに勤務するようになる[3]。エド・プロではビニ本を各地のアダルトショップに納本する営業職を務め[5]、その過程で流通や印刷ブローカー、資金繰りといったエロ本業界のノウハウを獲得することになった[3]。スポンサーと出逢ったことで[3]、1975年、旧知の編集者である佐山哲郎を誘って自販機本出版社のエルシー企画を設立。武蔵野大門名義でヌードカメラマンも兼任し、スカトロ系エロ本の先駆けとなる『女子便所』シリーズやフェティッシュな接写写真・局部アップなどでエロ本の新境地を開拓、自販機本業界に旋風を巻き起こす。
1979年からは高杉弾・山崎春美編集の伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』のスポンサー役を務める。ちなみに内容について明石は「我関せず」の態度を貫き、創刊号では山口百恵宅のゴミ漁り企画「芸能人ゴミあさりシリーズ」を世に送り出す。
1980年、エルシー企画が自販機本最大手のアリス出版と合併し、同社副社長に就任するも同年辞職する。その後、アリス退社組を率いて高田馬場に群雄社出版を設立する[注 2]。
1981年2月、猥褻図画販売の疑いで群雄社に家宅捜索が入り、ビニ本『局部・ド・アップ』を印刷して販売した容疑で3月6日に逮捕される[6][7]。さらに東京国税局に課税通報されたことで、転向宣言してビニ本業界から撤退した[7]。明石逮捕の影響で『HEAVEN』は3月に廃刊[8]。
1982年2月、山崎春美のスーパー変態インタビュー(スーパー変態マガジン『Billy』1982年2月号)でメディアに初登場する。
1982年9月には日本初のスカトロ専門誌『スカトピア』(群雄新社)を創刊する[9]。
群雄社では自販機本以外にビニ本や一般書にも進出するが、経営不振で1984年に倒産。
アダルトビデオメーカー「アトラスにじゅういち」の前身となるビデオ制作会社「ビップ」の代表取締役が最後の肩書となった[注 3]。