美輪明宏
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美輪 明宏
撮影時期不明(原典では1950年代とされる)
基本情報
出生名.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}丸山 臣吾(まるやま しんご)(幼名)
別名丸山 明宏(まるやま あきひろ)(本名及び旧芸名)
生誕 (1935-05-15) 1935年5月15日(89歳)
出身地 日本長崎県長崎市
学歴海星中学校
ジャンルシャンソン
職業シンガーソングライター
俳優
演出家
タレント
声優
担当楽器
活動期間1952年 -
レーベルキングレコード
事務所オフィスミワ(自営)
公式サイトo-miwa.co.jp

美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年昭和10年〉5月15日[1] - )は、日本歌手俳優演出家タレント声優コメンテーターナレーターとしても活動している。

長崎県長崎市出身。本名及び1971年までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)、幼名は臣吾(しんご)。愛称はマルさん。

海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。自らの個人事務所である「株式会社オフィスミワ」所属。身長161cm
略歴
長崎時代(1935年5月15日- 1951年)

1935年昭和10年5月15日水曜日)、長崎県長崎市において、丸山作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。

美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊廓」と呼称された遊廓の近くで、「世界」という名前のカフェーや料亭を経営して成功を収めており、経済的に豊かな環境で育った[2]1941年12月、イギリスアメリカ合衆国との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェーを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。

1945年昭和20年)8月9日、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、当時10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の「万寿姫」の絵を描いていた。絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、何千ものマグネシウムを焚いたような白い光をみた。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。それは原子爆弾によるものであった(長崎市への原子爆弾投下)。女中に促され2人で布団をかぶるとすぐさま空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こして、3人で防空壕に向かった[3]。6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする[注釈 1][注釈 2]

原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返済を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。

終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学校では、同期に西岡武夫がいた。
歌手 丸山明宏日本劇場で「メケ・メケ」を歌う美輪

エンリコ・カルーソーベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年の春、15歳の美輪は、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)に進学するため上京する。ある時、帰省した際に、父が生活が苦しくなった親戚に対して無情に見捨てるような態度をとったことに激怒し、大喧嘩した。父から絶縁を言い渡され、仕送りも当然ながら止められた。美輪は東京で自活するために高等学校を中退、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露した。2015年時点で「芸歴64年、1951年(昭和26年)に進駐軍のキャンプ廻りでジャズを歌いギャラを頂いたことがプロとしての始まり」と本人が語っている。新宿駅で寝泊りしていた時期もある。

1952年、17歳になった美輪は、ゲイバーやバーテンなどのアルバイトにも従事して日当を稼いでいた。その頃、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶「銀巴里」(1951年 - 1990年)で美少年(ボーイ)兼歌手募集の張り紙広告を見て応募。シャンソン喫茶「銀巴里」と歌手として専属契約を交わし、国籍・年齢・性別不詳として売り出す。次第に人気を博し、三島由紀夫吉行淳之介野坂昭如大江健三郎中原淳一遠藤周作寺山修司なかにし礼等、文化人の支持を得る。歌手としての道を歩み始めた頃、父は事業に失敗し、美輪のもとを訪ねて金の無心をしてきた。かつての、父の親戚への無情な仕打ちと同じことを美輪が出来るはずもなく、かといって父を許せない気持ちが消えるはずもなかったが、兄弟の生活を守るために美輪は銀巴里での歌手活動とは別にアルバイトと称してキャバレーや進駐軍キャンプで歌った。

1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代の小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと[注釈 3]、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マス・メディアから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する[4]。同じ、1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手として出演している。

「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化。その間に、週刊誌にて、自身が同性愛者である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞・作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」等の音楽作品は、この頃、既に作詞・作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血等の原爆症に悩まされ始める事になる。

しかし、1963年には、中村八大らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催。翌、1964年には、「ヨイトマケの唄」を初めてステージで披露する。1966年、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され、人気が再燃する。
俳優 丸山明宏

1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪のために書き下ろした舞台作品『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演する。


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