美章園駅
東口(2021年5月)
びしょうえん
Bishōen
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所在地大阪市阿倍野区美章園2丁目18番14号[1].mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度38分17.04秒 東経135度31分26.27秒 / 北緯34.6380667度 東経135.5239639度 / 34.6380667; 135.5239639 (美章園駅)
美章園駅(びしょうえんえき)は、大阪府大阪市阿倍野区美章園二丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の駅である。駅番号はJR-R21。 駅名は、大阪の財界人であり大阪商工会議所第8代会頭、大阪商船(現在の商船三井)や日本電力(現在は解散)の社長などを務めた山岡順太郎が、1921年(大正10年)に美章土地株式会社を設立し、住宅地「美章園」を建設するに加えて、美章園駅の建設費を寄付したことに由来する。なお、山岡順太郎の父の名前は山岡美章であった[3][4][5]。 1945年(昭和20年)2月14日[14]午後8時過ぎ、アメリカ軍による空襲で、B29が阿倍野区内だけに3発の爆弾を投下した。そのうち1トン爆弾1発が当駅構内に落下し阪和線の鉄筋コンクリート橋脚を粉砕、付近の民家20件ほどを破壊し死傷者30余名を出した。運悪く東和歌山方面行きの電車が発車した直後でホームに多くの人がいたため、多くの死者が出た[15]。1951年(昭和26年)8月24日、駅東側に当時の駅職員によって「遭難供養之碑」が建てられた。 この時に明浄高等女学校(現・明浄学院高校)裏にも爆弾が落下し、同校生も犠牲になった[15]。近くの文の里公園に「慰霊塔」がある。それには大阪市最初の被爆地と書かれているが、実際には2月14日より前から大阪市内に空襲が行われている。 大阪市内で空襲慰霊碑のある駅としては、他に1945年8月14日の京橋駅空襲で被害を受けた京橋駅(大阪環状線・片町線)がある。 相対式ホーム2面2線を持つ高架駅。分岐器や絶対信号機がない停留所に分類される。 通常使用される改札口は東側のみだが、平日の朝ラッシュ時には西側の改札口も利用できる。
概要
歴史駅付近の高架線の被害営業再開(1947年4月)1956年(昭和31年)頃
(1956年発行『阿倍野区史』より)
1931年(昭和6年)
5月12日:阪和電気鉄道が阪和天王寺駅(現在の天王寺駅) - 南田辺駅間に駅新設届提出[6]。
6月3日:美章園停留場として新設[6]。
1940年(昭和15年)12月1日:南海鉄道への吸収合併により、同鉄道山手線の停留場となる[7]。
1944年(昭和19年)5月1日:戦時買収により国有化され、運輸通信省(後の日本国有鉄道)阪和線所属となる[7]。同時に駅に昇格。
1945年(昭和20年)2月14日:空襲の被害を受け、営業休止。
1947年(昭和22年)4月15日:営業再開[8][9]。
1958年(昭和33年):駅舎改築[8]。
1958年(昭和33年)5月13日:改良工事竣工[8]。
1966年(昭和41年)12月1日:荷物扱い廃止[10]。
1969年(昭和44年)8月:西口完成[11]。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる[7]。
1993年(平成5年)7月1日:阪和線運行管理システム(初代)導入。
1998年(平成10年)4月21日:自動改札機を設置し、供用開始[12]。
2003年(平成15年)11月1日:ICカード「ICOCA」の利用が可能となる[13]。
2013年(平成25年)9月28日:阪和線運行管理システムを2代目のものに更新。
2015年(平成27年)
3月8日:みどりの窓口の営業を終了。
3月9日:みどりの券売機プラスが稼働。
2018年(平成30年)3月17日:駅ナンバリングが導入され、使用を開始する。
2022年(令和4年)3月2日:JR西日本交通サービスによる業務委託駅となる。
空襲による当駅付近の被害
駅構造プラットホーム