美濃郡代
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美濃郡代(みのぐんだい)とは、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つ。別名上方郡代[1]
概要

美濃国中西部と伊勢国桑名郡の一部の幕府直轄領の民治を司る行政官であり代官である。勘定奉行支配で、席次は関東郡代に次ぎ焼火間詰。役高は四百俵あったという。

美濃国内の幕府領19万石余りの内で、厚見郡12村、石津郡5村、多芸郡11村、不破郡20村、安八郡16村、池田郡1村、大野郡6村、本巣郡23村、席田郡1村、方県郡6村については、大垣藩預地として所管した。

郡上郡加茂郡恵那郡は、享保11年(1726年)8月から万延元年(1860年)までは飛騨郡代が所管し、その内、享保14年(1729年)から万延元年(1860年)までは高山陣屋の出先である下川辺出張陣屋が所管した。

その他、八神毛利氏預地や信楽代官所管もあって、美濃の幕府領全てを管轄していたわけではない。

美濃国関ヶ原の戦い幕府がこの地に有力な大名が出現しないように、10万石未満の多数のと幕府直轄領に細分する。この結果、美濃国の約3割は幕府直轄領となる。

発足当時、美濃郡代の陣屋は、1604年慶長9年)に小早川秀秋の家臣である平岡頼勝が、可児郡徳野(現可児市徳野)に築いた徳野陣屋にあった。平岡頼勝徳野藩1万石の大名であり、この地を治めていたが、子の平岡頼資の死後、徳野藩は取り潰されている。

1650年慶安3年)、岡田善政木曽川の堤防工事の為、交通の便の良い羽栗郡傘町に仮陣屋を置く。

1669年寛文2年)、名取長知が正式に傘町に陣屋を移し、地名を傘町から笠松に改める(現笠松町)。以後明治維新まで、笠松陣屋に美濃郡代は置かれる。配下の手付、手代として江戸詰め14名、笠松詰め14名がいたほか、水害の多い美濃国を管轄していた関係から地役人として堤方役14名がおかれ、治水工事の計画、監督、堤防保護を担った。
歴代郡代
大久保長安

岡田善同 慶長18年-寛永8年

岡田善政 寛永8年-万治3年

名取長知 万治3年-寛文7年 陣屋を笠松に移転

杉田長昌 寛文8年-天和3年

甲斐庄正之 天和3年-貞享2年

岩手信吉 貞享2年-元禄12年

辻守参 元禄12年-享保3年 以降、滝川貞寧を除き郡代となる。 

辻守雄 享保3年-享保20年 在職中病没。笠松蓮国寺に葬られる。

井沢為永 享保20年-元文2年

滝川貞寧 元文2年-延享3年

青木安清 延享3年-宝暦8年 宝暦治水で二ノ手工区を担当。郡上一揆で処罰。

千種直豊 宝暦8年-明和3年

千種惟忠 明和3年-天明6年

千種鉄十郎 天明6年-天明8年 失政により遠島となる。

辻富守 天明8年-寛政3年

鈴木正勝 寛政3年-寛政11年

辻守貞 寛政11年-文化2年 辻富守孫。在職中に没。笠松法伝寺に葬られる。

三河口輝昌 文化2年-文化7年

滝川惟一 文化7年-文化11年

松下堅徳 文化11年-文政11年

野田斧吉 文政11年-天保6年 万寿騒動により召還。江戸への途上で急死したが、自害の可能性が指摘されている。

柴田政方 天保6年-嘉永4年 嘉永元年、飛騨郡代が管轄していた加茂郡の一部が移管される。

岩田信忍 嘉永4年-慶応3年 文久3年、管轄に飛騨郡代が管轄していた下川辺陣屋管内が加わる。

屋代忠良 慶応3年-慶応4年 

美濃郡代関連寺院

江月寺(岐阜県羽島郡岐南町)
参考文献

岐阜県教育会 『濃飛両国通史』 1924年

岐阜県 『岐阜県史』 1968年

脚注^ 濃飛両国通史 下巻p.75

関連項目

飛騨郡代


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