美濃衆
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美濃衆(みのしゅう)は、江戸時代交代寄合江戸幕府に代々仕えた旗本)。美濃国石津郡多良郷(現在の岐阜県大垣市)を所領としており、西高木家2,300石を筆頭に、東高木家1,000石、北高木家1,000石の高木氏3家からなる。伊那衆那須衆三河衆とともに美濃衆は交代寄合のうち「四衆」に分類される。
経歴

交代寄合美濃衆の苗字は「高木」であり、元々は1家であった。高木家の先祖は出身の大和国から、伊勢国、美濃国へ移動したと伝えられる。戦国期には織田信長の家臣として南美濃に土着した。慶長6年(1601年)、本家の西高木家(2,300石)、分家の東高木家(1,000石)・北高木家(1,000石)が徳川家康より美濃国石津郡・多良郡のうちに知行を受けた。徳川政権下ではこの三家を「美濃衆」と称し、交代寄合旗本であった。美濃衆は一貫して知行地内在住するとともに、参勤交代を実施した[1]

交代寄合は概して、少禄ではあるが領地内に在住して所領支配に当たった点では大名的な性格を持ち、また権力基盤としての石高つまり経済力が弱小であったことでは旗本としての性格を持っていた。その他、美濃衆は「川通御用」の公儀の役務を負うことにより特殊権益を持っていた。このため、血縁関係の他、美濃周辺の諸藩や尾張藩とは普段から親密な付き合いがあった。
参勤交代「交代寄合」も参照

交代寄合は旗本であるが大名と同様に参勤交代をした。美濃衆の参勤交代は「四月参府、五月御暇」と言われるほど江戸での滞在期間が短かった。更に2家と1家に分かれて隔年で参勤することが基本であり、幼少での家督相続があった場合は初御目見までは他の2家が交代を勤めた。他にも美濃・伊勢・尾張の河川普請の見回りを勤めた年とその翌年は参勤を免除され、免除期間中に見回りが命じられた場合には参勤免除が繰り越された。その他にも家督相続のための御礼参府をした翌年や病気時も参勤免除となったため、結果的にはほとんどの期間を国元で過ごした[2]
所領詳細は「西高木家陣屋」を参照

三家は年貢徴収や相場決定などの統治を協力し合い、所領を支配した。各家の呼称は伊勢街道を基準に近接した屋敷を眺めた方角がそれぞれ西、東、北であることに由来し、近世ではお互いに「西様」、「東様」、「北様」と呼び合った。西高木家の婚姻に関しては自家の家格より妻の家格の方が高い傾向があり、江戸期における婚姻の1/3弱は地縁のある尾張家家臣との縁組であった。

天保3年(1832年)3月、北高木家の屋敷からの出火があり、隣接する西高木家も類焼による屋敷を喪失した。この時には屋敷再建のための多額な資金が必要となり、血縁関係のある諸藩や近隣の高須藩に金子借用を依頼した。
川通御用

美濃衆は17世紀前半の寛永年間から江戸幕府滅亡まで、木曽長良揖斐三大河川地域における幕府の「川通御用」を勤め、治水のための新規・修復の工事の国役普請や御手伝普請に際して普請奉行または普請見廻役として工事を監督する一方、同地で発生した水争いや境界争いなど各種村方争議における論所見分を行って意見書・報告書を評定所へ提出した。また、宝永2年(1705年)からは流域川通りの定期巡検を実施して河道維持に努めることとなり、権力の一翼を担った。

木曽三川流域の治水事業には他に笠松に陣屋を置く美濃郡代(笠松役所)も担当しており、幕府支配の高木家と、勘定奉行支配の美濃郡代ではスタンスが異なった[3]。美濃郡代は笠松陣屋に居を構え、天領支配を行う地方役所と治水担当の堤方役所を指揮した。川通御用を命じられた高木家では川通役人を設置し、堤方役人と共に治水事業にあたった。このため高木家は宝暦治水の監督も担当した。
江戸屋敷

西高木家は明暦の大火により江戸屋敷を焼失した。その後、跡地は火除け地とされ、代地を与えられなかったために東高木家へ同居することとなった。諸大名の江戸屋敷と違い、美濃衆の江戸屋敷には留守居を含む2、3人の家臣が常駐しているだけであり、同居が可能であった。同居状態は文政8年(1825年)に東高木家の屋敷が火災に遭うまで続けられた[4]

明治維新後、明治元年12月上旬に高木家は中大夫に区分されて東京定府を命じられたが、翌明治2年2月中旬には京都にて提出した定府免除願いが認められ、結局高木家当主が東京に居住することは一度もなかった[5]
江戸出訴一件

明和元年(1764年)高木家領時郷時山村百姓28人が高木家の統治を不服とし、高木家領地支配の非道を江戸の幕府奉行所に直訴に出た。


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