美濃国
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美濃国

■-美濃国
■-東山道
別称濃州(じょうしゅう、のうしゅう)[注 1]
所属東山道
相当領域岐阜県南部、愛知県のごく一部
諸元
国力上国
距離近国
数18郡131郷
国内主要施設
美濃国府岐阜県不破郡垂井町美濃国府跡
美濃国分寺岐阜県大垣市美濃国分寺跡
美濃国分尼寺(推定)岐阜県不破郡垂井町
一宮南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)
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美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。
「美濃」の名称

美濃国を指す木簡は多く見つかっているが、石神遺跡・飛鳥池遺跡・藤原宮跡など7世紀の木簡はみな「三野国」と記す。青野(現・大垣市青野)、大野(現・揖斐郡大野町)、各務野(現・各務原市)という3つの「野」に由来するという説がある。

そして8世紀初頭の大宝2年戸籍(702年)や同3年(703年)の藤原宮跡木簡に「御野国」という表記が出てくる[1]。そして『古事記』には三野と美濃国の両様の表記がある。美濃の表記は8世紀にやや遅れて登場したようである。

別に、平城宮から出土した木簡には「美野国」と表記されたものもある。藤原忠通書状案(天理図書館所蔵文書)には「御庄々、武義(美乃国)、山上(美乃国)、吉田(美乃国)、保元々年七月」と記載されている。『新抄格勅符抄』(神事諸家封戸大同元年牒)にも、「美乃国」とある。

 柳田国男は著書『地名考』で、美濃、耳納、三納など、ミノと読む地名を挙げ、これらは一方が山地で、わずかな高低のあることを意味した地名であるとし、島根県美濃郡、岡山県の美濃県(みぬのあがた)などを例示した。当国本巣郡に美濃郷があり、この本巣郡は根尾川両岸を占める山地丘陵地帯で、美濃国造の本拠とされている。[2]
沿革

美濃国は『先代旧事本紀』によれば、もともと三野前国三野後国額田国の三国、『古事記』によれば、この二国に本巣国牟義都国を加えた五ヵ国であったとされる。それぞれの国には国造が設置され、また美濃県、鴨県、刀支県の三県に県主が設置された。後にこれらの国々と県を統合した結果、美濃国が7世紀に成立した。成立時の範囲は、現在の岐阜県の南部地域(美濃地方)と長野県の南西部地域の一部の木曽郡木蘇国)にほぼ相当した。南隣の尾張国との境は木曽川であったが、当時の流路は現在より北で、現在の境川下流を通っていた。

霊亀元年(715年7月、席田君邇近(むしろだのきみにこん)と新羅人74家のひとびとを美濃の国に移住させて、席田郡がつくられた(『続日本紀』)。岐阜県本巣市の舂稲神社には、当地が邇近の墓であるという伝承が残っている[3]大宝2年(702年)の美濃国加茂郡半布(はにゅう)里(現在の富加町羽生)戸籍に古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる(『日本書紀』斉明天皇6年10月条)。[4]
領域

明治維新直前の領域は、現在の岐阜県から下記を除き、愛知県一宮市の一部(東加賀野井の一部[注 2])と稲沢市の一部(祖父江町拾町野・祖父江町馬飼および祖父江町祖父江の一部[注 3])、豊田市の一部(須渕町・浅谷町・三分山町・下切町・下中町・島崎町・上中町・上切町・一色町)を加えた区域に相当する。
飛騨国に属する範囲


高山市飛騨市大野郡白川村の全域

下呂市の大部分(馬瀬惣島・西村・門原・保井戸・瀬戸および金山町中切・渡・下原町・大船渡・中津原・福来より北東の地域)

信濃国に属する範囲


中津川市の一部(山口馬籠神坂

越前国に属する範囲


郡上市の一部(白鳥町石徹白)

伊勢国に属する範囲


海津市の一部(海津町金廻・海津町油島[注 4]

尾張国に属する範囲


海津市の一部(海津町駒ケ江の一部[注 5]

木曽も含んでいた古代から近世

702年(大宝2年)に「始めて美濃国の岐蘇山道を開く」と続日本紀に記されているのが岐蘇(木曽)の史料上の初見であるが、このとき木曽路を開通させたのは美濃国の役人たちであったため、木曾谷は美濃国に含まれた。はじめ美濃国恵奈郡絵上郷に属していたが、信濃国と所属がしばしば争われた。9世紀後半の、貞観年中の859年?876年に天皇の勅命により、朝廷より藤原正範と靭負直継雄が派遣され、両国の国司と現地に臨んだ。この時の正範らの報告によると、「もともと吉蘇、小吉蘇の両村(木曾谷の村落)は美濃国恵奈郡絵上郷の地域にあり、和銅6年(713年)に美濃守笠麻呂らが、ここに吉蘇路を開通させた(三代実録)。ここは美濃の国府(不破郡垂井町府中)から10日余りもかかる距離にあり、信濃国府(松本市)のすぐ近くではあるが、もし信濃国ならば、美濃国司がこのような遠いところで工事をする理由がない。その理由で美濃と信濃の両国の国司立ち会いの上で国境を「懸坂上岑」(木祖村と旧奈川村との境界で木曽川の水源から北にある境峠)と定め、吉蘇・小吉蘇両村を恵奈郡絵上郷の地と裁断。それでこの報告にしたがって、木曾谷を美濃国と決めた。」という。当時は、境峠を越えて飛騨から来た道と合流し信濃国府へ向かったのである[5]。しかし平安時代末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。平安時代中期の拾遺和歌集には、源頼光の『なかなかに いいもはなたで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ』という和歌がある。

信濃地名考という文献には、木曾が信濃国に移管されたのは、平安時代の延喜年間(901年 - 923年)と記されている。

美濃国恵奈郡であった木曾全域が信濃国に移った時期について、信州大学人文学部の山本英二教授が長野県木曽郡大桑村定勝寺の古文書の回向文の中から年代が分かる5点で、延徳3年(1491年)には、美濃州恵奈郡木曽庄とあるが、永正12年(1515年)には、信濃州木曽荘と書かれているので木曾が美濃国恵奈郡から信濃国へ移ったのは1491年から1515年の間と結論付けた。

木曾古道記には木曽川より東側にある定勝寺の天文18年(1549年)作の鐘銘には信州木曾庄と書かれてあるのに対し、木曽川より西側にある興禅寺にある承応2年(1653年)作の鐘銘には美濃国恵那郡木曾庄となっていることを述べた上で、天正以来の記録に木曽川より東を信濃国筑摩郡、木曽川より西を美濃国恵那郡と分けていたが、享保9年(1724年)に木曽川の東も西も信濃国筑摩郡木曾と定められたと記されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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