美保関事件
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美保関事件(みほのせきじけん)とは、1927年昭和2年)8月24日大日本帝国海軍で夜間演習中に起こった艦艇多重衝突事故である[1][2]。美保関沖事件、美保ヶ関事件ともいう。
概要

日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約(大正10年11月締結)の結果として保有主力艦艇の総排水量を制限された[1][3]連合艦隊司令長官加藤寛治大将は東郷平八郎元帥から激励された「訓練に制限無し」を掛け声として[4][5]1926年大正15年)11月以来、猛訓練と個艦優秀主義によって戦力の劣勢を補おうとした[1][6]

翌1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖での徹夜の夜間無灯火演習中に川内型軽巡洋艦2番艦「神通」(第五戦隊3番艦。神通艦長水城圭次大佐)と駆逐艦」(第一水雷戦隊、第27駆逐隊。蕨駆逐艦長五十嵐恵少佐)が衝突事故を起こし、「神通」は艦首を喪失して大破、「蕨」は沈没した[7][8][9]。このとき「神通」を避けようとした後続の川内型3番艦「那珂」(第五戦隊4番艦。那珂艦長三戸基介大佐)も駆逐艦「」(第一水雷戦隊、第27駆逐隊。葦駆逐艦長須賀彦次郎少佐)に衝突[2]、両艦も大破した[8][9]。一連の経緯により、事故発生時の神通艦長水城圭次大佐は自決した[10][11]

これを美保関事件と称する[12]
経緯
編成

1927年(昭和2年)8月24日島根県美保関沖に日本海軍・連合艦隊(第一艦隊第二艦隊)の主要艦艇が集結[13][9]。同町沖で行われた第八回基本演習(夜間無灯火演習)において、第五戦隊(司令官清河純一中将:第1小隊〈加古古鷹〉、第2小隊〈神通那珂〉)および第二水雷戦隊(司令官八角三郎少将:旗艦〈夕張〉、第22駆逐隊〈第27号〔皐月〕第28号〔水無月〕第29号〔文月〕第30号〔長月〕〉、第26駆逐隊〈柿、楡、栗、栂〉、第27駆逐隊〈菱、菫、蕨、葦〉、第29駆逐隊〈第11号〔追風〕第13号〔疾風〕第15号〔朝凪〕第17号〔夕凪〕〉、第30駆逐隊〈第19号〔睦月〕第21号〔如月〕第23号〔弥生〕第25号〔卯月〕〉)[14][15]は乙軍を編制し、夜間雷撃訓練を実施する[16][17]。那珂には伏見宮博義王(海軍大尉)が[2]、同艦水雷長として勤務していた[18][19]

この時、本来第一水雷戦隊(司令官高橋寿太郎少将:旗艦「龍田」)に所属する第26駆逐隊(柿、楡、栗、栂)と第27駆逐隊(菱、菫、蕨、葦)は[20][21]第二水雷戦隊(旗艦「夕張」)に臨時編入され、前述のように乙軍として行動することになった[22][23]。指揮系統の違う部隊を組み込んだ臨時編制に、第一水雷戦隊先任参謀小沢治三郎中佐は危機感を覚えた[23]。小沢参謀は連合艦隊司令部に意見具申をおこなったが、加藤長官の意向を受けていた連合艦隊参謀長高橋三吉少将と連合艦隊先任参謀近藤信竹中佐は発令通りの夜間演習を実施した[4][23]

対する甲軍は、加藤寛治連合艦隊司令長官率いる第一艦隊の戦艦群(長門型戦艦長門陸奥〉、伊勢型戦艦伊勢日向〉)、第二艦隊(司令長官吉川安平中将:戦艦〈金剛比叡)等と軽巡4隻(鬼怒阿武隈龍田由良)で編制されていた[9][22]
事故発生

同日(8月24日)午後11時過ぎ、第五戦隊第2小隊(神通、那珂)は戦艦部隊を仮想敵(甲軍)にみたてて接近中、戦艦2隻(伊勢、日向)や軽巡複数隻(由良、龍田)等から照射を受けた[24]。特に龍田の探照燈に捉えられた「神通」は攻撃の機会を失ったと判定され、「那珂」とともに右へ旋回する[25]。すると第五戦隊第2小隊(神通、那珂)は後続していた第五戦隊第1小隊(加古、古鷹)および第26駆逐隊(柿、楡、栗、栂)、第27駆逐隊(菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ[26]。これにより「神通」と第27駆逐隊2番艦「」が衝突、ボイラーを粉砕された「蕨」は爆発を起こし、真っ二つに分断されて沈没した(蕨殉職者、五十嵐艦長ほか91名)[1][27][28]遺体は殆ど回収できなかった[29][30]


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