美作国
■-美作国
■-山陽道
別称作州(さくしゅう)[注 1]
所属山陽道
相当領域岡山県東北部、兵庫県佐用郡佐用町の一部
諸元
国力上国
距離近国
郡・郷数7郡64郷
国内主要施設
美作国府岡山県津山市
美作国分寺岡山県津山市(美作国分寺跡)
美作国分尼寺岡山県津山市
一宮中山神社(岡山県津山市)
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美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。 ミサカ(御坂・三坂)に由来する、あるいはウマサケ(甘酒)の産地であることに由来すると言われる[1]。 明治維新の直前領域は、津山市、美作市、真庭郡、苫田郡、勝田郡、英田郡の全域および岡山市の一部(北区建部町のうち福渡以北の旭川左岸側)、真庭市の大部分(阿口、五名、山田、宮地以南[注 2]を除く)、久米郡の大部分(美咲町江与味を除く)、兵庫県佐用郡佐用町の一部(奥海・若州・上石井・下石井・水根・桑野・海内・東中山)にあたる。 北東に因幡、北西に伯耆、西に備中、南に備前、東に播磨と隣接する。 中国山地が瀬戸内海に落ち込んで行く過程の山地側に位置する。国全体が海に面しない内陸の山間地であり、平地は山々の合間に盆地が点在するだけである。主要な盆地は三つあり、西部の真庭市を流れる旭川沿岸の盆地[注 3]、吉井川の流れる中央部で東西広域にわたる津山盆地、梶並川・滝川が吉野川に合流する東部の美作市の盆地[注 4]で、美作はその三盆地を核におよそ西部(真嶋郡、大庭郡)・中央部(苫田郡、久米郡)・東部(英多郡、勝田郡)の三つに分かれる[2]。 西北の蒜山山麓に蒜山高原が、また中北部の那岐山麓には日本原高原が広がるが広戸風という突風に見舞われる。 岡山三大河川の内、旭川と吉井川の上流域に位置し、近代化が進むまでは高瀬舟が流通の役目を担った。国全体が山間部であるため、大河川・街道に恵まれない土地の交通運搬は容易ではなく[3][4]、周縁部では同国内より隣国との関係が深い地域も多い[2]。 和銅6年(713年)4月3日、備前守 百済王南典と備前介 上毛野堅身の提案により[5]、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の六郡を分けて設けられ[6]、初代美作守には分立提案者である上毛野堅身が就任した。 美作の分立は、かつての吉備国分解の最終段階であり、鉄資源を吉備氏から直接、ヤマト政権の管轄下に置くことによる吉備氏弱体化の意図があったとされる。美作には英田[注 5]、白猪屯倉、錦織[注 6]、久米[注 7]、弓削[注 8]などヤマト王権と直結する部民や施設が配置された地名が多くある。 鎌倉時代は、有力御家人である梶原景時が、続いて景時を追って幕府の有力者となった和田義盛が守護となったが、両者とも鎌倉幕府の政権内部の抗争に敗れ族滅され、北条氏の領国となった。この時代、久米郡・苫田郡を中心に足利氏の荘園が多く存在した[7][8]。 美作国は古代から歴史上一貫して美作を基盤とする安定勢力が出現せず、南北朝時代の動乱から戦国時代の終焉まで、山名氏、赤松氏、尼子氏、浦上氏、毛利氏、宇喜多氏など周辺の大勢力の草刈り場となって、常にその浮沈に巻き込まれた[9]。 守護やそれとほぼ同期する実際の支配勢力は室町幕府期だけでも山名氏、赤松氏、尼子氏、浦上氏、宇喜多氏の間を幾たびも変遷、最終的に1600年の関ヶ原の戦いに東軍に参与した小早川秀秋が備前・美作両国を領するも、わずか2年で改易された。 小早川家断絶後は森氏が入封し津山藩が成立した。森氏は鶴山に日本三大平山城の一つに数えられる津山城を築城して城下町を整備し、美作全体を一括した統治をなした。この時代は『作陽誌 津山の前身として、戸川(富川)宿という市があり賑わっていた[10]。後の市街の大半は吉井川を境に苫田郡と久米郡に分割される土地に過ぎず、中心は二宮の西にある守護所や安国寺の置かれた院庄であった[11]。津山が中核都市となったのは、江戸時代に森氏が城下町を整備してからである。 明治4年(1871年)の廃藩置県により旧藩制をひきずった形で津山県、真島県、倉敷県、鶴田県、挙母県、古河県、生野県、明石県、沼田県、龍野県に分かれて属し、同年11月整理統合されて美作国と領域的に一体の北條県となったが、その北條県も明治9年(1876年)、すでに小田県と合併していた岡山県に合併され、廃止された。 明治維新後に岡山県の管轄となって以後は県北の一部として扱われ、名称として東部の美作町が残る程度で特に旧国としての美作を意識した活動はなかった[注 9]が、平成17年(2005年)4月から津山地方振興局を美作県民局に改編し、真庭地方振興局、勝英地方振興局を支局として編入[12][13]することで、ほぼ美作の領域を統一的に扱う行政機関が成立し[14]、また平成25年(2013年)に美作国建国1300年記念事業が行われる[15]など、再認識が進んでいる。
由来
領域
地勢
沿革
古代
中世など作東の武士は平家方についている。
近世
近代
現代
近世以降の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(766村・263,477石余)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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