羅城門
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羅城門(らじょうもん、らせいもん)は、古代日本都城の正門。朱雀大路の南端に位置し、北端の朱雀門と相対する。後世に「羅生門(らしょうもん)」とも[1]
概要

「羅城門」とは、本来は城壁である「羅城(らじょう)」に開かれた門の意味であるが[1]、一般的には平城京平安京の京域南端中央に正門として設けられた門を指す。両京ではその存在が確実であるが、いずれも現在までの発掘調査では門建物の規模などの詳細を明らかとしない。その他の都城では存在自体が明らかでなく、例えば藤原京の場合には京域南端が丘陵にかかるため存在しなかったと推測される[2]

城壁である羅城(城壁)に関しては、中国では多くの都市周囲に巡らされたが、日本では実態はほとんど無いとされる。文献上では『日本書紀天武天皇8年(679年)11月是月条に「難波築羅城」と見えるのが唯一の例で、この「難波羅城」も考古学的には詳らかでない[3]。また平城京・平安京の場合には、京域南端において羅城門の両翼の一部に羅城が築造されるのみであったと推測される[3][2]。羅城が都の全周を取り巻いているならその門である「羅城門」も複数あるはずであり、「羅城門」が一つの門の固有名詞であることはその門の周囲にしか羅城が存在しなかったことの証左とされる[4]。羅城門は都の正面を装飾するための建築であり[5]、外国使臣の入京が途絶した後にはその必要性を失って[6]荒廃することになる。なお、近年に大宰府で羅城様の土塁遺構が検出されているほか(「大宰府羅城」か)[7]近世豊臣秀吉が京都に巡らせた御土居に羅城の性格を認める見方もある[3]
読み

「羅城門」の元々の読みは、呉音で「らじょうもん」、漢音で「らせいもん」であったとされ、『拾芥抄』では「らせい門」と見える[8]。転訛した俗称として、『宇治拾遺物語』では「らいせい門」と見えるほか、『延喜式』では「らいしょう(頼庄)」、『拾芥抄』では「らしょう」と見える[9]。これに関連して、現在も平城京羅城門跡付近では「来生墓」の墓地名称の遺存が、平安京羅城門跡付近では「来生」の小字名の遺存が知られる[9]

中世頃からは「らしょう」の読みが一般化したものとされ[9]、当字で「羅生門」とも表記されるようになった[8][1]
一覧
平城京羅城門 平城京 羅城門跡
奈良県奈良市 平城京羅城門の模型(奈良市役所所蔵平城京1/1000模型の一部)
奥に朱雀大路

平城京の羅城門は、現在の奈良県大和郡山市観音寺町・奈良市西九条町の羅城門橋付近に位置する(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分10.74秒 東経135度47分40.80秒 / 北緯34.6529833度 東経135.7946667度 / 34.6529833; 135.7946667 (平城京羅城門跡))。規模は、従来は平城宮朱雀門と同様の桁行5間・梁間2間と推定復元されていたが、近年の条坊での発掘調査結果を基に桁行7間で京内最大と復元する説も挙げられている[2][10]

文献上では、『続日本紀』において雨乞い・外交使節送迎など様々な儀式が行われたことが見える[10]。『続日本紀』によれば門前に「三橋」があったことが知られ、これは現在も付近の小字名として遺存する[11]。羅城門の遺構は、現在では佐保川の流路内(西側堤防下)に位置するため、中心部分は大きく破壊されている[11]1969-1971年昭和44-46年)の発掘調査では、基壇の西端部分が検出されている[10]。なお郡山城には、天守台の石垣のうちに平城京羅城門の礎石と伝わる石が遺存する[9][11]

羅城については、羅城門付近のみとする説、京南辺全体とする説がある[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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