罪と罰
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この項目では、ドストエフスキーの長編小説について説明しています。その他の用法については「罪と罰 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「ラスコーリニコフ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ラスコーリニコフ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

罪と罰
Преступление и наказание
ラスコーリニコフとマルメラードフ(1874年版の挿絵)
作者フョードル・ドストエフスキー
ロシア帝国
言語ロシア語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『ロシア報知』1866年1月号-12月号
日本語訳
訳者内田魯庵
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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『罪と罰』(つみとばつ、ロシア語: Преступление и наказание, 1866年)は、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの長編小説。

ドストエフスキーの代表作であり、世界的な長編小説の一つしても挙げられる名作である。「現代の預言書」とも呼ばれ[要出典]、ドストエフスキーの実存主義的な考え方を垣間見ることができる[誰によって?]。

1866年に雑誌『ロシア報知(英語版)』(Русский вестник(ロシア語版))に連載。『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』の後期五大長編小説で、最初に出版された。
概要

主人公である貧しい元大学生ラスコーリニコフは、頭脳明晰ではあるが「一つの微細な罪悪は、百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論を持つ青年である。

主人公は、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てるも、殺害の現場に偶然居合わせた老婆の義妹まで殺害してしまう。この思いがけぬ殺人に、ラスコーリニコフの罪の意識が増長し、苦悩する。

しかし、ラスコーリニコフよりも惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャの、家族のためにつくす徹底された自己犠牲の生き方に心をうたれ、最後には自首する。人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズムが描かれた小説である。
解説

一般には、正当化された殺人、貧困に喘ぐ民衆、有神論と無神論の対決などの普遍的かつ哲学的なテーマを扱い、現実と理想との乖離や論理の矛盾・崩壊などを描いた(すなわち、当時広まった社会主義思想への批判でもある)思想小説の類に属するとされる。

一方で、老婆殺しの事件を追及する予審判事ポルフィーリーに追いつめられたラスコーリニコフが鬼気迫る勢いで反論する、彼との三度に渡る論戦はさながら推理小説であり、翻訳を手がけたロシア文学者の江川卓は『刑事コロンボ』のような倒叙ミステリーの様相を呈していると語っている[要出典]。

なお、刑事コロンボの脚本を担当したウィリアム・リンクは、コロンボのキャラクターはポルフィーリィがモデルだと発言している[1]
執筆の背景
執筆時期における作者のおかれた状況

政治犯としての刑期を終え、シベリアから帰還したドストエフスキーを待っていたものは、度重なる不幸であった。病床に臥した最初の妻マリアの看病はドストエフスキーを疲弊させ、ポリーナ・スースロワとの不倫関係を持つきっかけとなった。

ドストエフスキーは妻マリアを差し置いて、ポリーナとのイタリア旅行を画策する。しかし、一足先に旅立っていたポリーナは寂しさにかられて他人に身を任せ、ドストエフスキーを落胆させた。それでもドストエフスキーは持ちこたえ、彼女とイタリア旅行に向かうが、その直前にヴィスバーデンで大勝していたこともあって行く先々でルーレットに大金をつぎ込み、ポリーナにも愛想を尽かされる。

さらに、妻マリヤと実の兄ミハイルが相次いで世を去り、ミハイルが創刊した雑誌『世紀』も廃刊に追い込まれ、莫大な借金だけが残された。新作『地下室の手記』も評価されず、失意のうちにあったドストエフスキーは、悪徳出版業者ステロフスキーとの間に無謀な契約を交わし、それによって前借りした3000ルーブルを当座の借金の返済にあて、残った金を元手に再びヴィスバーデンに赴いた。

しかし、彼はここでも大負けし窮地に陥った(ホテルから蝋燭の提供さえ拒否された)。そして、このような状況の中で『罪と罰』初稿の執筆が開始されたのである。同年10月に友人の協力で帰国した。翌1866年1月、雑誌『ロシア報知』にて連載を開始し、同年12月に完結した。なお、トルストイの『戦争と平和』とは、連載時期を同じくしている。

また、ドストエフスキーは、ステロフスキーとの契約に従い、長編をもう一本書く必要があった。この時に書かれた『賭博者』は当時最新の速記を活用して、僅か26日間で仕上げられ、『罪と罰』の終結部の一部も速記を用いて執筆されている[2]
執筆の経過

ヴィスバーデンで書かれた『罪と罰』の初稿は一人称形式で、ドストエフスキーの言によれば「ある犯罪の心理報告書」となるべきものだったが、登場する人物は限られていた[3]。一方、この構想が生まれる以前に、ドストエフスキーは、『酔いどれ』と称する中編小説の構想を持っており、実際に出版社に売り込みをかけたこともあった[3] 。やがてこの『酔いどれ』が『罪と罰』に統合され、マルメラードフ一家やスヴィドリガイロフなどの重要なキャラクターが『罪と罰』に導入されることになった[4]。このときは、まだ一人称形式が保持されていたのだが、連載開始を目前にして、ドストエフスキーは、それまでの草稿を破棄し、第三者視点による物語に改めた[5]
小説のモデル

本作執筆のきっかけとなったのは、1865年1月にモスクワの商人の息子で、ラスコーリニキ(分離派信徒)のゲラシム・チストフが、金品略奪を目的に二人の老婆を殺害した事件である。ヴィスバーデンにいたドストエフスキーは、この事件を『声』紙に掲載された速記録で知ることになった[6]。連載中、本作品に似た事件が起きて世を賑わしたため、ドストエフスキーは、大いに興奮したと伝えられている[要出典]。この時、ドストエフスキーは、自らの観察眼について大いに自慢げであった[要出典]。

ほとんど時を同じくして1866年4月4日にドミトリイ・カラコーゾフ(ロシア語版、英語版)による初の皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件が起きた時には、驚愕して言葉を失い身を震わせたという。カラコーゾフは、主人公と似た境遇にある活動家であり、主人公が往来で大声で独り言を続ける半狂人として扱われているのと同じように、「死にたい」という口癖を持つ、精神科に通う病んだ若者であった[要出典]。

1879年には、カラコーゾフをモデルとする『カラマーゾフの兄弟』が書かれた。1881年2月9日にドストエフスキーは死去したが、直後の3月13日にイグナツィ・フリニェヴィエツキ(英語版)によってアレクサンドル2世は暗殺された。
あらすじ
プロローグ
帝政ロシアの首都、夏の
サンクトペテルブルク。学費滞納のため大学から除籍された貧乏青年ラスコーリニコフは、それでも自分は一般人とは異なる「選ばれた非凡人」との意識を持っていた。その立場なら「新たな世の中の成長」のためなら一般人の道徳に反してもいいとの考えから、悪名高い高利貸しの老婆アリョーナを殺害し、その金を社会のために役立てる計画を立てる。アリョーナから金を借り、その金を「貧乏なため娘が娼婦になった」と管を巻く酔っ払いのマルメラードフに与えた翌日、かねてからの計画どおりアリョーナを斧で殺害し、さらに金を奪おうとする。しかし、その最中にアリョーナの義妹も入ってきたので、勢いでこれも殺してしまう。この日からラスコーリニコフは、罪の意識、幻覚、自白の衝動などに苦しむこととなる。
序盤
翌朝、ラスコーリニコフは、下宿の女中が「警察に出頭せよ」との命令書を持ってきたので慄く。行ってみると「借金の返済の督促」であったが、刑事達から昨夜の老婆殺しの話を聞いて失神する。様子が変だと思った友人のラズミーヒンが、ラスコーリニコフを訪問してきたところに、母から手紙で知らされていた妹の婚約者のルージンが現れる。成金のルージンを胡散臭く思ったラスコーリニコフは、これを追い出す。そんなとき、ラスコーリニコフは、マルメラードフが馬車に轢かれたところに出くわす。


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