座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度32分45.81秒 東経135度50分24.71秒 / 北緯34.5460583度 東経135.8401972度 / 34.5460583; 135.8401972 (纒向遺跡).mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}纒向遺跡
纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市[1]の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡・複合遺跡。国の史跡に指定されている。
2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡である[2]。一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる[3]。邪馬台国の中心地に比定する説があり、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、それより古い5つの纒向型前方後円墳が分布する。
立地と遺跡概要[ソースを編集]辻地区 遠景建物遺構の奥にJR桜井線巻向駅。左後方は三輪山、右端には箸墓古墳。
纏向遺跡の名称は、発掘を担当した石野博信が旧磯城郡纒向村に由来して名付けた。「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられ、その伝承も基礎としたものである[4]。
2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区の範囲。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmに及び大字辻・太田・東田・大豆越・草川・巻野内・穴師・箸中・豊前・豊田にまたがる[5]。およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3km2(300万m2)に達する。
地勢は、東が高く西が低く、巻向山の北麓を水源とする巻向川の標高60-90mの纒向川扇状地上に遺跡が形成されている[6]。縄文時代に土石流の流れ込みがあり被害があった事が確認されている。そのためか、遺跡からは弥生時代の集落は確認されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基検出されているのみである。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周溝墓や竪穴建物なども検出されている。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている[7]。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとする研究者から、邪馬台国の最有力候補地ともされる。2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある[8]。
飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。奈良時代から平安時代にかけては、井戸遺構や土坑、旧河道などが検出されている。「大市」と墨書された土器も検出されている。
遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として?地区と太田地区の一部が、国の史跡に指定された[9]。
遺跡の概要[ソースを編集]
纒向遺跡で、現在確認されているのは太田微高地の平屋と高屋の住居跡と、辻地区の大型建物遺跡と土坑。箸中集落跡、茅原集落跡[10]。
引船など物流の運河が主で各拠点を結んでいたと推定される大溝。北構と南溝が下流の東田地区で合流していた。ヒノキや杉の矢板で護岸されていた[11]。
辻・トリイ前地区でほぼ南北に2×3間の掘立柱建物とその南に東西に並ぶ柵列が、太田南飛塚地区で家屋倒壊遺構が、巻野内家ツラ地区で1×1間の小家屋と2×2間の総柱の建物が検出されている。このほか太田メグリ地区では、掘立柱建物が17棟が東田柿ノ木地区・太田飛塚地で竪穴建物跡が検出されている。
100年近くにわたる年3度と推定する川辺での祭祀を中心とした集落跡がある[12]。