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織田 萬
人物情報
生誕 (1868-08-21) 1868年8月21日
日本佐賀県
死没1945年5月26日(1945-05-26)(76歳)
出身校京都帝国大学
学問
研究分野法学(行政法)
研究機関関西法律学校・ 京都帝国大学
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織田 萬(おだ よろず、慶応4年7月4日(1868年8月21日) - 1945年(昭和20年)5月26日)[1]は、日本の法学者。専門は行政法。京都帝国大学名誉教授。常設国際司法裁判所判事。関西大学学長。財団法人立命館名誉総長[1]。佐賀県須古邑生まれ[1]。 この節の出典:[1] 佐賀県須古邑の士族・須古精一の次男として生まれた。佐賀藩の本流にはなかったものの、須古邑(現・白石町)を支配する須古鍋島家の親族家老・須古西家に属す名士であった。1歳の時に織田範治の養子として迎えられ、織田家の子供として育てられた。1879年(明治12年)、須古小学校を卒業した織田は、当時須古邑に安住百太郎が開設した「鶴陰学舎」で漢籍や外国法律書などを学ぶ。安住は、江藤新平が唐津の士族約120名を率いた「佐賀の乱」に参加した人物で、反乱鎮圧後、岡山県で獄中生活を送っている。織田は「鶴陰学舎」での経験を通じていち早く「自由民権運動」の気風に触れることができた。後に須古村に「鶴陰学舎之址」の碑を建立した織田は、自らの号も「鶴陰」とするなど、「鶴陰学舎」に相当の愛着をもっていたことを窺わせる。 1883年(明治16年)、司法省法学校への入学を目指して上京。翌年秋には定員50名に対して受験者約1,500名という狭き門を突破して同校予科へ進学した。司法省学校の同期には、後に総理大臣となる若槻禮次郎、後の大臣・小川平吉、荒井賢太郎、常設国際司法裁判所で織田の後任を引き受ける安達峰一郎、京都帝国大学法科大学で同僚となり、のちに財団法人立命館初代協議員となる岡村司らがいた。その後学制改革により、司法省学校は第一高等中学校予科へ編入されることとなった。卒業後は帝国大学(現在の東京大学)法科大学に進学、仏法学科に在籍しフランス法に触れた。帝大時代は、後に京都帝国大学法科大学で同僚となる、憲法学者の井上密(京都帝国大学法科大学教授、京都法政学校教頭)や、その後文部省官僚として京都帝国大学の設立に関わり立命館大学の総長となる中川小十郎らと同期生であった。 大学院では穂積八束の下で行政法を学び、卒業後は東京専門学校(現早稲田大学)、日本法律学校(現日本大学)、和仏法律学校(現法政大学)で講師を務めながら行政法の研究を深め、1895年(明治28年)には、自身初の著作である『日本行政法論』を出版。この著作が縁となり、元老西園寺公望の知遇を得た織田は、西園寺の勧めによって1896年(明治29年)からの4年間、ヨーロッパへ留学し、主にフランスで過ごすこととなった。実は、文部省留学生としてドイツ・フランス留学が決まった織田は、初め恩師の穂積陳重からドイツ行きを勧められていたという。
経歴
幼少時代
青年時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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