織田政権
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織田政権
織田家家紋・織田瓜
概要
創設年元亀4年(1573年
解散年天正13年(1585年
対象国 日本
政庁所在地近江国 安土
(現 : 滋賀県近江八幡市
代表織田信長
織田信忠
織田秀信
織田氏

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織田政権(おだせいけん)とは、安土桃山時代日本武家政権織田信長政権を獲得していた1573年天正元年)あるいは1568年永禄11年)から1585年(天正13年)まで成立していた。
名称

信長がその生涯をかけて築いた政治権力は、研究上、一般に「織田政権」という用語で表される[1]。この「政権」という用語が使われる背景には、信長の権力が従来の戦国大名権力とは異質な面をもち、近世の統一権力の先駆けとなったという考え方がある[1]

歴史学者の朝尾直弘は戦国大名権力との相違点を強調して「信長政権」という用語を使用しており、脇田修も一定の限界を指摘しつつも統一政権の先駆けとなった面を評価して「織田政権」という用語を使用している[1]。他方で、2000年には立花京子が、信長の個性を重視するとともに、勝者の立場を前提とする「統一政権」という言葉を避けるべきという観点から、「織田政権」ではなく「信長権力」と表現している[1]。2010年の戦国史研究会開催のシンポジウムでは、「織田権力」という呼称が使われたが、これは信長の権力と従来の戦国大名権力との共通点を強調するという意味で用いられている[1]。そのほか、藤田達生は、信長の権力の在り方について、信長の実質的な将軍就任があったと見て、「安土幕府」と位置づけている[1]

このように、信長の権力の捉え方の多様化にともない、様々な呼称が使用されている[1]。平井上総によれば、これらは観点の違いによるものであり、いずれかの呼称が適切だというものではない[1]。以降、便宜上、「織田政権」という呼称を使用することとする。
段階

政権の段階規定には評価により種々あるが、三鬼清一郎は織田政権を次の3期に分けて分類している[2]
第 1期:1568年永禄11年)9月までの濃尾平野を基盤とする地方政権の段階。

第 2期:1573年元亀4年/天正元年)7月の将軍足利義昭追放までの室町幕府の将軍権威を利用していた段階。

第 3期:1582年(天正10年)6月の本能寺の変で信長が自害するまでの朝廷権威を利用していた段階。

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政権確立織田信長

永禄3年(1560年)5月に織田信長は今川義元桶狭間の戦いで破り、8年後の永禄11年(1568年)に美濃を支配下に置くと、前将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛し、それまで京都で政権を確立していた三好政権の構成員を追放、あるいは屈服させることに成功した。これにより、信長は足利義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立し、自らはその後見人として政権を確立した。

その後、織田信長は伊勢北畠具教河内三好義継大和松永久秀ら、畿内における諸大名を支配下に置き、畿内に一大勢力圏を築くに至った。
政権の危機

永禄12年(1569年)1月、信長が義昭の行動を制限する「殿中御掟」を成立させると、両者の対立が顕在化し始めた。ただし、信長が「殿中御掟」を出した意図については、信長による義昭の傀儡化であるとする従来の通説に対する批判が出され、近年では幕府権力の立て直しを意図したものであったと考えられている[3]

信長は元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いなどで、各地の敵対勢力を降していった。

一方、元亀3年(1572年)12月、武田信玄の「西上作戦」による三方ヶ原の戦いにおいて、信長の同盟者である徳川家康は敗退する。この状況をみた義昭は信玄の上洛と信長の没落の可能性を考えて、信長を切って信玄と結ぶことで政権の維持を図ろうとした。これによって、従来は信長だけでなく彼が擁立する義昭に対抗するために結ばれていた所謂「信長包囲網」は義昭を擁して信長に対峙するものに変わることになる[4]

元亀4年(1573年)4月に武田信玄は病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。これによって信長包囲網はほぼ崩壊した。

その後、信長は上洛し、一時的な和睦を経て将軍・足利義昭を河内に追放した。これにより、室町幕府は事実上消滅し、畿内に織田政権が確立したのである。その後、信長は浅井長政、朝倉義景、三好義継ら敵対勢力を滅ぼし、畿内周辺を勢力圏に収めた。
勢力拡大から信長の死まで

天正2年(1574年)に伊勢の長島一向一揆を鎮圧した織田信長は、天正3年(1575年)5月25日の長篠の戦いにおいて徳川家康とともに甲斐国の武田勝頼を破った。さらに8月に越前・加賀で一向宗徒を鎮圧し、同地を支配下に置くに至った。織田信忠

天正10年(1582年)、織田氏の勢力は畿内近国から、東は甲信から関東の上野にかけて、西は山陽道備中南海道淡路四国の一部にかけてという強大な勢力に伸張していた。

紀伊に関しては直接的な勢力こそ浸透していなかったが、天正8年(1580年)に石山戦争が終結した後、鈴木孫一土橋若太夫が仲間割れして分裂し、信長は野々村正成を派遣して鈴木側に肩入れし、天正10年(1582年)1月23日には『信長公記』の記述によると、孫一が信長の承諾を得て土橋を謀殺し、信長の勢力を背景にした鈴木氏の勢力が拡大していた。

越後では上杉謙信が天正4年(1576年)に石山本願寺と講和して織田信長との同盟を破棄し、天正5年(1577年)9月に織田軍を手取川の戦いで破った。しかし、上杉謙信が天正6年(1578年)3月に死去すると、謙信養子の上杉景勝景虎間で家督を巡る御館の乱が発生した。


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