織田完之
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おだ かんし
織田 完之
1912年大正元年)ごろの織田
生誕天保13年9月18日1842年10月21日
三河国額田郡高須村(現・愛知県岡崎市福岡町居屋敷)
死没 (1923-01-18) 1923年1月18日(80歳没)
東京府牛込区
国籍 日本
職業農政家、歴史学者、著述家
著名な実績印旛沼干拓平将門雪冤運動
配偶者織田咲枝、加茂兼子、大内くに
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織田 完之(おだ かんし、天保13年9月18日1842年10月21日) - 大正12年(1923年1月18日)は、日本農政家、歴史学者、著述家。
概説

織田完之は、明治時代官僚および農政史学者、歴史学者、著述家である。は士全[注釈 1]雅号は鷹洲、寅賓[1]

医者の家系に生まれ当初は医術を専攻したが、幕末には松本奎堂に師事したのち、天狗党の乱を視察するなど志士として活動した。明治以後は新政府の官僚として弾正台大蔵省内務省などに奉職、その後農商務省農務局に異動し尚古派農学者として佐藤信淵の著作の編纂など日本在来農法の調査・編纂に従事した。また、金原明善らとともに印旛沼干拓の事業計画を行った。

晩年は歴史研究にも従事し、平将門の雪冤運動を展開するなど歴史上の人物の顕彰活動を行った。著書の総計は、刊行書が180冊、未完書が56冊に達する。
経歴
出生から幼年期

天保13年(1842年)9月18日(旧暦)、三河国額田郡高須村(現・愛知県岡崎市福岡町居屋敷)に生まれる[2]。父・織田良右衛門、母・リウの第5子。幼名は策馬。織田家は織田信雄の末裔であるという家伝を持つ豪農の一族とされ[3][4]、母方の岩瀬家は医家として同地での名家であるとされる[5]

天保14年(1843年)、2歳の時父と死別し、続いて母を失った。そのため母の実家の岩瀬家に引き取られ、長兄・董作とともに母方の祖父である岩瀬友右衛門に養育された[5]華岡青州の門下である長男・岩瀬敬介とその子敬斎より医学を学び、医院の書生として仕事を行った[6]。その後、嘉永6年(1853年)から安政3年(1856年)にかけて上地村の早川文啓に漢学の素読や医学を学んだ。さらに曽我耐軒に2年間、その後沓掛村(現・豊明市)の伊藤両村に寄留して勉学した[5]
志士時代

安政6年(1859年)、18歳の時に名古屋の松本奎堂に入門、翌年塾長となる。松本が家塾を閉鎖したことに伴い、21歳で郷里に戻り中之郷村で医業を開く。翌年には後に妻となる織田咲枝と同棲するが[6]、文久3年(1863年)の天誅組の変で松本が戦死すると江戸に出た[7]元治元年(1864年)、武田耕雲斎の筑波挙兵(天狗党の乱)を聞き、ただちに筑波へかけつけ戦いを視察、その状況を『常野兵談』4冊にまとめた。さらに蛤御門の変四国艦隊下関砲撃事件などに際会し、京都に上り勤王攘夷派の志士と往来する[5]。長州の同志に京都の状況を知らせようと[5]、もしくは七卿落ちにより長州に滞在していた公家の世話をしようと出立したが[8]、岩国で幕府方の間諜と見誤られ、慶応3年(1867年)6月から岩国藩吉川家に入牢となり、獄中で生活する。
出獄、政府官僚へ

1868年明治元年)、従姪となる織田咲枝と結婚(1874年に離縁)[9]1869年(明治2年)2月、品川弥二郎の嘆願によって釈放される。同年6月、品川の推薦により明治新政府の弾正小巡察に任ぜられた。同年病気を理由に弾正台を辞任し帰郷するが[6]、まもなく若松県(現・福島県)の権小属となる[7]。弾正台出身の織田が若松県監察局に任用されたのは、当時知事であった四条隆平の県政安定を意図した方策であったと考えられる[10]。この時利根川を渡り、関東の風土に接したことがその後の農政、治水に関心を抱く動機になったと言われており、この前後に佐藤信淵二宮尊徳への関心を持ち始めたとされる[11]。若松県赴任後は監察局頭取に就任、中等学校下等科であった若松学校の主事として活動した[12][6]1870年(明治3年)、病気のため再び帰郷する[6]

1871年(明治4年)、大蔵省記録寮に出仕。この頃より佐藤信淵の著書の校訂および出版を開始する[11]1874年(明治7年)、内務省勧業寮に異動。内藤新宿農務試験場などに勤務した。同年、大久保利通松方正義の知遇を得て『農政垂統紀』を著した[7]

1881年(明治14年)、農商務省の設置に伴い同省農務局に転じ、内外農書の蒐集にあたった。『大日本農史』全6巻、『大日本農政類編』などの編集に従事し自らも『本朝農事参考書解題』全5巻を著した[7]
印旛沼開削計画の開始現在の印旛沼

日本の治水・水利等の農政資料の整理を通じ、江戸期における印旛沼開削工事計画の存在を知る。特に、完之が印旛沼開削の必要を痛感したのは、佐藤信淵の『内洋経緯記』に刺激されたためと言われており[13]、同書には印旛沼干拓による農業および経済、軍事的な利点が述べられている[14]。『印旛沼開削沿革誌』(1884年)や『印旛沼経緯記』(1893年)などを著すとともに、その実行に移った。

印旛沼は、旧幕臣の平山省斎と彼が官長を務めていた神道大成教の資金をバックに1884年(明治17年)よりその干拓計画が始められた。天竜川治水事業に貢献した金原明善と完之がそこに加わり、1888年(明治21年)4月、千葉県の許可が得られる。同年5月、大明会という発起人会が東京で設立される。発起人13人のうちには金原や岩崎弥太郎渋沢栄一伊藤博文三島通庸などが名を連ねた[15]。完之が中心となり本格的な開削計画の立案が開始されるが、オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケの測量報告書や土木局の調査は完之の意図したものと大きな齟齬があり、1893年(明治26年)頃、計画は行きづまり中止された[7]


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