織田信秀
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この項目では、織田信長の父である尾張国戦国大名について記述しています。同名の孫で、信長の六男の同名の人物については「織田信秀 (侍従)」をご覧ください。

 凡例織田 信秀
織田信秀木像(萬松寺所蔵)
時代戦国時代
生誕永正8年(1511年[注釈 1]
死没天文21年[2][注釈 2]3月3日1552年3月27日
別名通称:三郎
渾名:器用の仁[4]、尾張の虎
戒名萬松寺殿桃巌道見大禅定門
墓所愛知県の亀岳林萬松寺名古屋市中区
泉龍山桃巌寺(名古屋市千種区
官位従五位下、弾正忠備後守、三河守、贈従三位
主君織田達勝信友
氏族織田弾正忠家(勝幡織田氏)
父母父:織田信定
母:含笑院殿(いぬゐ・織田良頼の娘)
兄弟信秀、信康信光信実信次、松平信定夫人(松平信定室)、長栄寺殿(牧長義室)、岩村殿遠山景任室のち秋山虎繁(信友)室?)、秋悦院殿織田信安室)
妻正室:織田達勝の娘
継室:土田御前
側室:織田敏信の娘、養徳院殿(池田政秀の娘)ほか
信広信時信長信行信包長益(有楽)、お市の方浅井長政継室のち柴田勝家室)、お犬の方佐治信方室のち細川昭元室)、ほか
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織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代尾張国武将戦国大名織田信長の父。
生涯
家督相続

尾張国南西部海東郡中島郡に跨る勝幡城愛知県愛西市稲沢市)を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として永正8年(1511年)に生まれる。

信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣の清洲三奉行の一家で弾正忠を称した家を継いでいた。大永年間(1521?8年)に勝幡城を築き当時、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し、同家の勢力拡大のきっかけを作る[5]

信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる[3]。家督相続からまもなく、天文元年(1532年)、主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城織田寛故と争ったが、講和した。この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たち[注釈 3]と数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した(『言継卿記』)[7][8]天文3年(1534年)には、嫡男の信長が誕生した。
勢力拡大

天文7年(1538年)頃、今川氏豊の居城の那古野城名古屋市中区[注釈 4])を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した[9]

その後も勢力の拡大に伴って、天文8年(1539年)には古渡城(名古屋市中区)を築き、居城として、2つ目の経済的基盤となる熱田を支配した。信長の幼年時か、天文15年(1546年)の元服前に那古野城を譲っている[10]。さらに後年の天文17年(1548年)には末森城(名古屋市千種区)を築き、また居城を移しているが、当時の戦国大名は生涯、あるいは代々本拠地を動かさないことが多く、特異な戦略とされる[11]

経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下叙位され、備後守任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した[9]。天文10年(1541年)9月にはその礼として朝廷より三河守に任じられたというが、周囲への使用例はない[9]。天文12年(1543年)には、天文10年の嵐による内裏の建物倒壊の修理料として朝廷に4000貫文を献上[12]。さらに朝廷重視の姿勢を示した(『多聞院日記』)[13][注釈 5]

対外においては遡ること享禄2年(1529年)、松平清康が尾張に侵入し、信秀の支配下である東春日井郡の品野城や、愛知郡の岩崎城を収奪。天文4年(1535年)、さらに今川勢に唆された清康は森山を侵略するがその最中、家臣の阿部正豊によって殺害された(森山崩れ)。その結果四散した松平氏の隙を突いて、信秀は三河に反攻。天文9年には安祥城を攻略して支配下に置き(安城合戦#第一次安城合戦)、長男(庶子)の織田信広を置いた。

天文11年(1542年)、美濃では守護の土岐頼芸と子の土岐頼次が、斎藤道三によって尾張へ追放される。信秀は頼芸を支援し、また同様に追放された先々代の守護の子の土岐頼純を庇護下に置く越前の朝倉孝景と連携し、美濃に出兵して斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪った[14]。また『信長公記』によると、同年の第一次小豆坂の戦いでも今川義元を相手に勝利を収め、西三河の権益を保持したという[注釈 6]

こうして信秀は主家である大和守家への臣従関係は保ちつつ、実質的な地位や権威は大和守家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康織田信光ら一門、家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤・松平・今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君として守護代家・守護家を仰ぎ続けた。尾張国内の大和守家や他の三奉行、犬山の織田信清などと何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとはせず、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘される。それらを抱えたまま国外の敵と戦うことには限界があり、その併呑や排除は信長の代を待つことになる[7]
勢力の陰りとその死萬松寺の墓所

天文13年(1544年)、斎藤道三の居城・稲葉山城の城下まで攻め込んだが、道三の反撃を受けて大敗する(加納口の戦い)。

天文16年(1547年)9月、岡崎城を攻め落とし、城主の松平広忠を降伏させる[16]。広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になったのもこの頃の出来事と考えられている[17]

天文17年(1548年)、道三が広忠に働きかけ、斎藤氏・今川氏と結んだ広忠が再度挙兵(『武家聞伝記』)。道三や今川義元は信秀に対抗するため、工作活動を行っていたと考えられている[17]。さらに犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させる。また、道三による大垣城攻撃を受けたため救援に向かうがその最中、織田達勝から大和守家を継いだ織田信友も古渡城に攻め寄せたため、帰還して信友と対峙する。この年、信秀は道三と和睦。条件として信秀の嫡子・信長と、道三の娘・帰蝶(濃姫)との婚姻が決まる。

同年3月19日第2次小豆坂の戦いにおいて、太原雪斎の指揮する今川・松平連合軍に敗北。信秀は今川氏の勢力に押され、大和守家とも対立し、苦境に立たされる。

天文18年2月24日1549年3月23日)、帰蝶が織田家に輿入れ[18]。大垣城は道三の支配下に戻り、また同年には大和守家の信友とも和解した[19]

同年3月、信秀の勢力を三河より駆逐せんとする今川氏が、織田方の西三河支配の牙城であった安祥城に対し、太原雪斎を将とする約1万の軍勢を送る。城主である信秀の庶子・信広の奮戦により、一度はその攻撃を退けたものの、今川氏は同年9月に再び出兵。平手政秀が援軍として安祥城へ送られたが、11月に安祥城は陥落した(第三次安城合戦)。信広が今川氏に捕縛されたことで、人質としていた松平竹千代との交換も行われ、西三河における織田方の勢力は総崩れの様相を呈した[20]。信秀はこの頃から病に冒され臥せるようになり、周囲や関係者にも病中と知られるようになる[注釈 7]。11月には信長が代行として「執達」し、「藤原信長」名で熱田に制札を出しており、これが信長の初見文書となっている[22]

天文19年(1550年)8月、今川氏の軍勢により、知多郡水野信元が降伏。翌天文20年(1551年)12月には愛知郡鳴海城山口教継が今川方となり、教継の調略により織田方の勢力が削がれるという困難の続く中で、天文21年3月3日(1552年3月27日)、信秀は末森城で死去した[2][注釈 2]。享年42。家督は嫡男の信長が継いだ。葬儀は萬松寺で行われ、僧侶300人を参集させた壮大なものだった[23]。しかし、信秀の死は3年間伏せられていたという説もある。

なお、没年については天文18年(1549年)説[24][注釈 8][注釈 9]、天文20年(1551年)説[25][注釈 11]、天文21年(1552年)3月9日説[26][注釈 12]もあるが[24]思文閣の古書資料目録229号にある武将花押・朱印貼交帖には、備後守信秀名の天文20年4月24日付の判物が残されている[27]
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