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凡例織田信正 / 村井重勝
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文23年5月5日(1554年6月4日)[1]
死没正保4年11月25日(1647年12月21日)[2][3][1]
改名於勝丸(幼名)
別名織田信正、原田信正、村井重勝、原田重勝
通称:帯刀、主膳、号:見性軒、法名:了盛
戒名見性寺殿正誉英厳了盛大居士
墓所納?山見性寺
織田 信正(おだ のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
『系図纂要』によれば、織田信長の庶長子であるというが、一般的には信長の子として存在を認められていない[1]。他方で、見性寺(左京区)の寺伝によれば、同寺の開基で、信長の庶子から村井春長軒の養子となった村井 重勝(むらい しげかつ)は同一人物であるという[8]。 天文23年(1554年)5月5日、尾張那古野城で誕生した。これが正しければ、信忠よりも3年[9]早く生まれたことになり、信長最初の子供ということで庶長子と記されている[1]。幼名を於勝丸。母は信長家臣の塙直政(後に原田姓に改める)の妹、明鏡院智勝尼。 永禄9年(1566年)、13歳で元服し、通称を帯刀と称して、古渡城城主となった。天正2年(1574年)、20歳の時、従五位下大隅守に叙任された[4][10]。翌年、21歳の時には従五位上主膳正に昇任した[4]。天正6年(1578年)、24歳の時、従四位下侍従に昇進[11]。 天正13年(1585年)に隠居して、京都見性に庵を開き、翌年、32歳の時、剃髪して見性軒と号した[2]。 正保4年(1647年)11月25日[2]、没した。享年94。法名は見性寺正誉英厳了盛[2]。 『京都坊目誌』によると、信長と村井貞勝の菩提を弔うために見性寺を創建した開基の村井重勝は、信長の「庶子[12]」で「貞勝に養育された者」であるという。諸系図でこれに該当する者はおらず、前述の信正のことを指したものであろうと考えられる。 天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、前田玄以と共に二条新御所にあった、とされる[13]。
生涯
『系図纂要』による信正
見性寺伝による重勝