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出典検索?: "織田信昌"
この項目では、江戸時代の小幡藩主について説明しています。
江戸時代の旗本については「織田信昌 (旗本)」をご覧ください。
戦国武将については「織田信昌 (戦国武将) 」をご覧ください。
室町時代の武士については「藤原信昌」をご覧ください。
凡例織田信昌
時代江戸時代前期
生誕寛永2年(1625年)
死没慶安3年7月9日(1650年8月6日)
改名百介(幼名)→信昌
官位従四位下・因幡守、兵部大輔
幕府江戸幕府
主君徳川家光
藩上野小幡藩主
氏族織田氏(信良流)
父母父:織田信良
母:下津俸庵の娘
兄弟松孝院、光浄院、天量院、信昌ら2男3女
妻正室:小笠原政信の長女
子娘(織田長迢正室)
養子:信久
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織田 信昌(おだ のぶまさ)は、江戸時代前期の大名。上野国小幡藩2代藩主。官位は従四位下・因幡守、兵部大輔。 初代藩主・織田信良の次男として誕生。母は久我通興の孫娘。幼名は百介。 寛永3年(1626年)7月、父の死により家督を継ぐが僅か2歳の幼児だったため、祖父の織田信雄は加賀藩前田氏の家臣であった五男(信昌の叔父)の高長を呼び戻し、高長が後見人となって政務を担当した。寛永6年(1629年)、小幡村に陣屋の建築を開始した。後に福島村から小幡村に陣屋を移す。寛永7年(1630年)、信雄の死去に伴い、信雄の(事実上の)隠居料であった大和国宇陀松山3万1200石を高長が相続する。これに対し信昌の家臣団からは、宇多領も信昌家のものである、とする異論が出されるが、幕府は高長の相続を認め、小幡織田家は残った2万石余となった。 寛永8年(1631年)2月15日、3代将軍・徳川家光に御目見する。このとき家臣3人も同伴する。これは家格の高さを示す優遇措置である。寛永16年(1639年)12月大晦日、従五位下因幡守に叙任する。後に従四位下に昇進する。 寛永20年(1643年)7月7日、幕府から館林城の守備を命じられた。正保2年(1645年)6月10日、初めて領地に赴任する許可を得る。陣屋を小幡村に移築、さらに領内の検地を実施するなど、藩政の基礎を固めた。正保4年(1647年)5月22日幕府から下館城の守備を命じられた。 慶安3年7月9日(1650年8月6日)、26歳で死去し、跡を養子の信久が継いだ。 正室 子女
生涯
系譜
小笠原政信の長女
織田長迢正室(長女)
表
話
編
歴
信良流織田氏2代当主(1626年 - 1650年)
織田氏 (平姓)
親真
親基
親行