「織田信休」、「織田信安」、あるいは「織田信恭」とは別人です。
凡例織田 信康
時代戦国時代
死没天文13年9月22日(1544年10月8日)
別名通称:与次郎(與次郎)、弾正左衛門
諡号伯厳又は白厳
戒名雲林院殿白巌仍叟居士[注釈 1]
仍叟白巌大居士[注釈 1]
氏族織田弾正忠家(勝幡織田氏)
父母父:織田信定
兄弟信秀、信康、信正、信光、信実、信次、松平信定正室、長栄寺殿、おつやの方、秋悦院
子信清、広良、信正[注釈 2]、与一、信武、織田信張正室ら
養子:信時
特記
事項犬山城築城主
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織田 信康(おだ のぶやす)は、戦国時代の武将。犬山城築城主。 尾張国の織田弾正忠家(勝幡織田氏)の当主・織田信定の子として誕生。 天文2年(1533年)7月11日、兄・信秀が主家筋の織田大和守家(清洲織田氏)織田達勝と争った際、和平成立後、兄・信秀の代理として清洲城に出向いた[1]。また、天文6年(1537年)には犬山城に入城し、織田伊勢守家(岩倉織田氏)の織田信安の後見役も務めたとされる。兄・信秀に従い、今川氏との小豆坂の戦いなどで戦功を挙げる[2]など、政戦両面で活躍した。 天文13年(1544年)、斎藤道三との戦いに従軍し、美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)にて戦死[3]。没年については天文16年(1547年)ともされる。子・信清は信秀や信長に対して反抗的であったため、犬山織田家は織田弾正忠家の敵対勢力の1つとなった。
生涯
系譜
父:織田信定
母:不詳
妻:不詳
生母不明の子女
男子:織田信清
男子:織田広良
男子:織田信正[注釈 2]
男子:柘植与一(織田大炊介)
男子:織田信武(庶子、松長三郎信正)
女子:織田信張正室
養子
男子:織田信時 - 織田信秀の子
脚注[脚注の使い方]
注釈^ a b 『犬山里語記』(19世紀前半成立)による。必ずしも当時の戒名とは限らない。
^ a b 『蜂須賀家成立書并系図』による。
出典^ 『言継卿記』
^ 太田牛一『信長公記』巻首 「あづき坂合戦の事」
^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「美濃国へ乱入し五千討死の事」
関連項目
針綱神社 - 天文6年(1537年)、安産祈願のため信康自ら手彫りの狛犬一対を奉納した。以来、同神社は安産・子授けにご利益があるとされる。
登場する作品
信長 KING OF ZIPANGU - 平成4年(1992年)NHK大河ドラマ、演:加世幸市
麒麟がくる - 令和2年(2020年)NHK大河ドラマ、演:清家利一