織田信孝
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 凡例織田信孝 / 神戸信孝
太平記英勇傳:丹部侍従平春高[注釈 1]歌川国芳作)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永禄元年4月4日1558年4月22日
死没天正11年(1583年4月29日[1]6月19日)または5月2日[2]6月21日
改名神戸三七郎 → 信孝 → 織田信孝
別名通称:三七、三七郎、三七信孝
戒名昭雲院殿高厳徳公[3]
龍厳徳公大禅定門[注釈 2]
墓所愛知県知多郡美浜町大御堂寺
三重県亀山市関町福蔵寺
官位従五位下侍従
主君織田信長秀信
氏族織田氏神戸氏→織田氏
父母父:織田信長、母:坂氏[注釈 3]
養父:神戸具盛(友盛)
兄弟信忠北畠具豊(信雄)、信孝、羽柴秀勝勝長信秀信高信吉信貞信好長次信正[注釈 4]、ほか
異父同母兄:小島兵部少輔[注釈 5]
義弟:神戸政房 [注釈 6]
妻正室:鈴与姫(神戸具盛の娘)
子賢子[注釈 7]織田信衡室)
特記
事項『寛政重修諸家譜』などの公的文書では子女なしとある
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織田 信孝(おだ のぶたか / のぶのり[注釈 8])は、安土桃山時代武将大名織田信長の三男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。
生涯
出生について

永禄元年4月4日1558年4月22日)、尾張国戦国大名・織田信長の三男として、熱田にあった家臣・岡本良勝(太郎右衛門)の邸で生まれた[8]。童名(幼名)は勘八とも伝わるが不詳[9]通称を三七ないし三七郎。

母は信長の側室坂氏[注釈 3]で、北伊勢の豪族・坂氏の女であるという以外の出自は一切不明である[8]

広く知られた伝承では、嫡男・織田信忠の生母・生駒殿が同月(4月)に第二子・茶筅丸(後の織田信雄)を出産しているが、実は信孝の方が信雄より20日先に生まれていた(信雄の誕生月日ははっきりとしていないが、織田信孝の生年月日から計算すれば、信雄が生まれたのは永禄元年(1558年)の5月に入ってからということになる)が、母の身分が低かったために[注釈 9]報告が遅れ、本来なら次男になるはずだったのに三男とされたと言う[11][8][12][13]

次男となった信雄は通称で「三介[注釈 10]」とされ、20日早く生まれて三男となった信孝の通称が「三七」とされた。信孝はこの出生時の不満から信雄に敵意を抱き続けていた[14]と解釈されてきたが、それは古くから信じられてきた俗説であり、史実としてはそのようなことをうかがわせる史料は見つかっていない。信孝は庶出の三男にすぎなかったが、信長が四男以下の子供をほとんど顧みなかったことを思えば、特に目をかけられていたといえる[15]
神戸家養子

永禄11年(1568年)2月、信長が伊勢国北部を平定した際に、降伏した神戸城三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛(友盛)の養嗣子とされた。これは「押入聟」で神戸家と関家の不快を余所に[16]家を乗っ取るための計略であったが、以後は神戸三七郎を名乗っている。

養子入りに際しては、乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役として付けられ、信長家臣からは岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門らが信孝付きとして付けられた[注釈 11]。伊勢国の関氏一族の関・峯・国府・鹿伏兎氏らも与力とされ、このほか峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水・野々懸彦之進・吉川九兵衛・岡本氏・長尾氏・神戸氏・安井氏・可児氏・林氏などの名が家臣として見られる。

元亀元年(1570年)頃より、信孝は養父の具盛と不仲となり、信長は具盛を伊勢沢城に強制的に隠居させ[16]、さらには蒲生賢秀に命じて近江日野城に幽閉させた[17]

元亀2年(1571年)、このような形で信孝は神戸氏を継いだので、同時に家督相続に反対した旧臣を粛清し、高岡城主の家老・山路弾正忠を切腹させ、120人の家臣を追放した。引き続き神戸家に仕えた家臣団が480人であったことから、これを神戸四百八十人衆と称した[13][14]

相続後、信長の命令で神戸検地(元亀2年頃)と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注いだ。神戸城下は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。

なお、『勢州軍記』『柏崎物語』によると、元亀3年(1572年)1月に兄の信忠や信雄と共に岐阜城において元服して[18]、加冠役は柴田勝家が務めた[注釈 12]というが、史料に残る名乗りを見ると信忠の元服は少なくとも天正元年頃であり、兄より先に元服したとは考え難い[19]ために誤伝の可能性が高い。実際の元服は、天正元年7月以降と考えた方が妥当であろう[20]

与力であった関盛信は、本来、神戸家の本家筋で上位である名門関氏の当主であり、信孝を軽んじてこれに従わず、不仲であった。しかし、信孝の伊勢入国は、単なる縁組ではなく、信長の支配政策の一つであって逆らうことは許されなかった。その反抗的な態度が信長の耳に届くようになると、天正元年(1573年)春、関盛信はついに信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられて近江日野城に幽閉された。盛信の居城亀山城は没収され、信孝の所領とされた。
遊撃軍団・連枝衆として

天正2年(1574年)7月、第三次長島一向一揆攻めに従軍したが、これが初陣であったと考えられる。長島平定後は滝川一益が北伊勢4郡に封じられたため、伊勢国は滝川一益・神戸信孝・長野信包(信長弟、伊勢長野氏養子)、そして翌年頃に北畠氏の家督を継いだ信雄(信意)の4人で分割統治されることになった。


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