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出典検索?: "織田信勝"
同名で呼ばれる戦国時代の人物の「織田信行」あるいは同名で呼ばれる安土桃山時代の人物の「津田盛月」とは別人です。
凡例織田 信勝
織田信勝像(成徳寺蔵)
時代江戸時代前期
生誕元和9年(1623年)
死没慶安3年5月17日(1650年6月15日)
改名辰之助(幼名)、信勝
墓所兵庫県丹波市柏原の恵照山成徳寺
官位従五位下下総介
幕府江戸幕府
主君徳川家光
藩丹波柏原藩主
氏族織田氏(信包流)
父母父:織田信則、母:岡部長盛の娘
兄弟信勝、植村家貞正室、石河貞利継室
妻正室:松平忠重娘
子覚応院、松平忠倶養女ら3女
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織田 信勝(おだ のぶかつ)は、江戸時代前期の大名。丹波国柏原藩の第3代藩主。官位は従五位下下総介。信包系織田家3代。 第2代藩主・織田信則の長男として誕生した。幼名は辰之助。 寛永7年(1630年)、父・信則の死去により家督を相続した。寛永13年(1636年)1月8日、江戸城石普請を命じられた。寛永16年(1640年)12月晦日、従五位下・上総介に叙任する。寛永17年(1640年)9月24日、高槻城の守備を命じられる。藩政では佐治川の治水工事や新田開発を行い、丹波柏原藩の基礎を固めた。 慶安3年(1650年)5月17日、28歳で死去した。墓所は恵照山成徳寺(兵庫県丹波市柏原)。成徳寺には「織田信勝像」が伝わる。また、母親により織田神社
生涯
3女のみで男子がなかったため、丹波柏原藩は改易されて公儀御料となった。一説に、死去時に側室が懐妊しており、名門織田家の廃絶を惜しんで男子出生の場合は家督相続が認められるはずだったが、生まれたのは女子だったので改易になったという。そのため叔父の信当が3000石で旗本に取り立てられ、家名存続は認められた。 子女は3女。
系譜
父:織田信則(1599-1630)
母:岡部長盛の娘
正室:松平忠重の娘
生母不明の子女
長女:覚応院 - 松平忠倶の養女、水野重上正室
次女:
三女:松平忠倶の養女 - 喜連川昭氏正室
外部リンク
『織田信勝』 - コトバンク
表
話
編
歴
信包系織田家3代当主(1630年 - 1650年)
織田氏 (平姓)
親真
親基
親行
行広
末広
基実
広村
真昌
常昌
常勝
尾張国守護代家
伊勢守家
(常松) 教信
教長(朝長)
郷広
久広
敏広
寛広
広高
敏信
信安
信賢
大和守家
(常竹) 教広
常任
勝久
久長
敏定
寛定
寛村
達定
勝秀
達勝
信友
清洲三奉行家
因幡守家
広長
広貞
広延
達広
広信
藤左衛門家
常寛
寛故
寛維
寛故
信張
信直
信氏
忠辰
信番
弾正忠家
良信
信定
信秀
信長
信忠
秀信
絶家
弾正忠家の分家・支流
信長流
信忠流
信雄流
秀雄
絶家