繆斌工作(みょうひんこうさく)とは、日中戦争末期の1945年(昭和20年、民国34年)3月から4月にかけておこなわれた、汪兆銘政権の要人繆斌(みょうひん、ぼくひん)による日中戦争の和平工作である。日本側の反対で工作は失敗に終わった[1]。佐藤と言う偽名を使って来日していたので佐藤事件とも呼ばれた。
対日協力政権である南京国民政府(汪兆銘政権)で立法院副院長の職にあった繆斌は、1943年(昭和18年、民国32年)8月から、?介石の重慶国民政府の軍統(軍事委員会調査統計局)の幹部や軍政部長の何応欽と連絡を取り合っている。彼は重慶政府の要人と連絡を取り合っていたことで南京政府より監禁されたことがあり、釈放後は逼塞していた[1]。1945年3月、繆は?介石政権の密命を受けたとして訪日し、南京国民政府の解消と交換に日本軍の中国撤退や満州国の認知などを条件とする日中の単独和平交渉を日本の小磯内閣に提案した[1][2]。対米英戦争(太平洋戦争)において敗色濃厚となった日本では、連日の激しい本土空襲に苦しんでおり、繆斌の示した和平条件はかなりの好条件であった[1][2]。また日本の対米英開戦のそもそもの原因が中国問題にあったことから、この工作は対米英戦の和平につながりうるものとして期待された[2]。小磯國昭重光葵 この交渉を主導したのは小磯國昭内閣総理大臣や情報局総裁の緒方竹虎国務大臣らであり、天皇に近い東久邇宮稔彦王もこの和平工作に賛成していた。3月21日、小磯は繆斌を最高戦争指導会議に招致することを閣僚に提案し、当初はこの和平工作に陸海軍首脳も賛成の意向であった[2]。ところが、重光葵外務大臣はこの工作に猛反対であり、内大臣の木戸幸一も重光を支持した[1][2][注釈 1]。重光外相は、非正規の外交ルートによる外交交渉に反対という原則論に加え、和平工作そのものにも激しい批判を加えた[2]。重光によれば、繆は「繆斌に?介石との繋がりはなく、日本の機密情報を持ち帰ってそれを手土産に?介石に寝返ろうとしているだけの和平ブローカー」として、それを示す情報を陸海軍首脳に提示した[2]。重光の反対を受けて、杉山元陸相と米内光政海相も見解を変更し、繆を通じての和平工作に反対した[4]。参謀総長の梅津美治郎も反対の意向を示した。 小磯首相はあくまで交渉の続行にこだわり、陸海外の3大臣が反対するなか、4月2日に昭和天皇に繆を引き留めることを上奏した[5]。しかしこれがかえって天皇の不興と不信を買った[1]。昭和天皇の見解は「繆斌は汪精衛(汪兆銘)を見捨てた男である。元来重慶工作は南京政府に一任しているのだから日本が直接乗り出すのは不信な行為であるし、いやしくも一国の首相ともある者が?介石の親書も持って居ない一介の男である繆斌如き者の力によって日支全面和平を図ろうと考えるのは、頗る見識の無い事である。たとえ成功しても国際信義を失うし、失敗すれば物笑いとなる」というものであった[6]。4月3日、天皇は繆斌の帰国を小磯に指示、この工作の失敗を受けて、小磯内閣の不統一が露呈し、小磯首相は退陣するにいたった[1]。 繆がはたして?介石の密命を本当に帯びていたのかについては今日に至るまでさまざまな議論がある[1]。当時から和平ブローカー説、謀略説もある一方で、真に密使である可能性を主張する意見もあった[1]。たとえば彼が「私が東京に滞在中は、東京空襲はおこなわれないはずでしょう」という奇妙な発言を日本滞在中にしていたことを評論家・作家の戸川猪佐武らが指摘している。事実、彼の滞在期間中に東京への空襲は行われなかったという。また、戦後、頭山満の腹心だった南部圭助 日本敗戦後、中国では日本軍民に対する戦犯裁判とは別に、中国人の「漢奸(民族の裏切り者、売国奴)」を摘発して「漢奸裁判
経緯
繆斌処刑の意味
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 重光葵の対重慶和平外交は、東条内閣時代の対支新政策を継承して、南京国民政府と重慶との関係改善を重視するものであった[1]。重光は、南京国民政府の首班汪兆銘が最も信頼を寄せていた日本の要人であった[3]。それに対し、小磯國昭は、繆斌工作に先立って宇垣一成を中国大使に起用し、重慶と直接工作を行う構想をもっていた[1]。重光のみるところでは、宇垣は南京政府に反対の立場からの重慶工作派であった[1]。宇垣の立場は、小磯首相・緒方国務相・美土路昌一などに近いものであり、重光支持派は、木戸幸一や杉山陸相などであった[1]。重光によれば、大東亜会議を支持した東条が重光外交のよき理解者であったのに対し、小磯は「対外的に何等の識見を有せぬ謀略家」にすぎなかった[1]。内閣の不一致は、繆斌の来日以前から小磯内閣に胚胎していたといえる。
^ 逮捕日は、現代中国では1945年9月27日とされることが多いが[9][10]、劉傑によれば1946年4月2日[11]、彌吉博幸によれば、1946年3月17日の戴笠(軍統指導者)事故死の直後[7](別資料では3月22日)である。