縮景園
濯纓池
分類庭園(都市公園)[1]
所在地広島県広島市中区上幟町2-11
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分59.0秒 東経132度28分2.9秒 / 北緯34.399722度 東経132.467472度 / 34.399722; 132.467472
縮景園(しゅっけいえん)は、広島県広島市中区上幟町にある庭園。 国の名勝、日本の歴史公園100選。施設は県が管理する[1]。 元和6年(1620年)、広島藩浅野氏初代藩主である浅野長晟が命じて作らせた藩主の別邸(大名庭園)が起源であり、歴代浅野氏から寵愛を受け現在まで拡幅し、1940年(昭和15年)浅野氏が広島県に寄贈し現在に至る。最初の作庭は上田宗箇によるものだが、現在の庭園の原型は京都庭師の清水七郎右衛門
概要
広島市内中心部付近にあり、太田川水系京橋川沿いにあり、その河口から約6.4km上流に位置する[8]。西側に広島城、京橋川を挟んで東側に広島駅がある。周辺は緑が多く、京橋川上流側に東部河岸緑地が整備されている[9]。南西は広島県立美術館に、南東は広島市立幟町中学校・広島市長公館に隣接しており、元々縮景園の敷地の一部であった[10][11]。
広島における戦前の名所絵葉書の中でも、ここを撮影したものは特に多い[10]。 縮景とは、各地の景勝を聚め縮めて表したことを意味し、あるいは中国の西湖周辺の風景を縮めて表したことによると言われる[4][5]。名付け親は林羅山とも言われている。これは、2代藩主浅野光晟の依頼に応じて作った詩の序文に以下のものがあるためである[5]。縮海山于其地 聚風景於此楼(海山をその地に縮め 風景をこの楼に聚む) 正徳3年(1713年)、5代藩主浅野吉長は邸内の山・池・建物・橋・島などに雅名を付け、藩の儒員で堀杏庵の曾孫である堀南湖
名称
なお、造営当時の正式名称は「泉水屋敷」で、明治から戦中までは「泉邸(せんてい)」であり、縮景園の名が正式名称となったのは戦後からである[3][13]。戦前まで地元住民から「御泉水」とも呼ばれていた[13]。
海外、特にキリスト教圏では「Asano Park」の名でも知られている。これは後述のとおり被爆後この地に滞在したイエズス会神父達による回顧録によって定着したものであり、例えば米国戦略爆撃調査団の報告書やタイム誌の記事に引用されたヨハネス・ジーメス神父著『The Atomic Bombing of Hiroshima』[14]や、著名な被爆体験記であるジョン・ハーシー著『ヒロシマ』にこの名が登場する。
園内濯纓池と跨虹橋と清風館「 ⇒縮景園公式ホームページ」を参照
中央に「濯纓池」と呼ばれる池を配しそれを「跨虹橋」によって東西に二分、その池を基準に北・東・西に小山を築き宗箇山・二葉山・弥山などの借景としている[3][5]。主要建物は、跨虹橋の南に位置する「清風館」で、その他茶室や四阿を備える[5]。
植生は、少なくとも4,826本の樹木があると言われている[15]。うち、被爆樹木つまり戦前からある樹木が3本でその他は戦後に植えられたもの[15]。構成は、3m以上の常緑広葉樹が全体の35.3%、それ以下の常緑広葉樹が32.5%と過半数を常緑広葉樹が占めている[16]。主要樹木としては、クロマツ6.9%、ヤマモミジ2.7%、クスノキ2.5%、ソメイヨシノ2.0%など[16]。
水源は、園の北に位置する京橋川から引いた河川水と、園内3箇所ある井戸の揚水からなる[17]。この周辺の京橋川の水質基準は環境省の水質汚濁に係る環境基準において「A類型」(BOD75%値 2.0mg/l以下)[18]。