縄文土器
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深鉢形土器(火焔型土器) 縄文中期 新潟県十日町市笹山遺跡出土 十日町市博物館国宝深鉢形土器 縄文中期 東京都あきる野市草花出土 東京国立博物館

縄文土器(じょうもんどき)は、日本の石器時代縄文時代)の土器の呼称[1]。現在では滅多に使われていないが縄紋土器という表記もある[2]
概要長岡市馬高遺跡出土「火焔土器(馬高A式1号深鉢土器)」の3Dデータ

縄目模様が特徴的だったので縄文土器と呼ばれるようになったが日本の石器時代の土器すべてに縄文が施されていたわけではない[1]。日本の石器時代(縄文時代)の土器ならば縄目模様をほどこしていないものも含めて縄文土器と呼ぶ[1]。北は北海道の礼文島千島から南は奄美大島沖縄南西諸島にまで分布する[1]。時代や地方ごとに独特の様式(形状と文様の組み合わせ)がある[1]。時代ごとの流行や好みの変化が様式に反映されているので、様式の変遷を目安にして縄文時代の草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分類するということが行われている[1]
縄文土器と弥生土器の違い

縄文の施されて点もあるが、弥生土器は焼成温度が高く、縄文土器は温度が低い点にある。このため、縄文土器は壊れやすく、形状も厚く形成されている。そして、弥生土器は高温で焼かれたため、薄い赤褐色であるのに対し、縄文土器は褐色となる。
縄文土器の発見と定義

縄文土器は大森貝塚発掘したモースによって見出され、英文報告書で cord marked pottery(索文(索紋)土器)とされた。しかし貝塚土器など様々に呼ばれ、結局、縄目文様という発想から命名された「縄文式土器」の用語が定着した。

1975年昭和50年)、佐原真は土器の名称に「式」を使うことの不合理を説き、「縄文土器」の名称を使うことを提唱し、以後、一般化した。編年作業が精緻化した今日においては「縄文土器」の用語が用いられることが多く、その場合、「縄文(縄目文様)が施された縄文時代の土器」という意味(狭義の縄文土器)と「縄文時代の土器一般」(広義の縄文土器)という2つの意味で用いられる。[3]また、山内清男佐原真など一部の研究者で縄紋土器の用語を用いているものもある。これは、土器表面に施された模様が一種の紋章の意味を成しているのではないか、という考えによるものである。[4]
縄文土器の年代と東アジア

1万6000年前ころから土器が出土している。この土器は縄文が施されていないが、世界最古であり、当時は日本列島で土器が出来たとされていた。しかし、シベリアなどで同年代の土器が見つかり、東アジアに土器文化が広がっていった事が今ではわかっている。土器の年代は炭素14年代法で確定される。炭素年代法については異論がある。[5][6]しかし、1万6000年前では、花粉などに気候の方法があるが、最後には同位体元素に戻り、他に有力な方法がない。
縄文土器の時代区分と文化圏、そして、弥生土器との関係

草創期:約16,000年前 早期:約11,000年前 -前期:約7,200年前 -中期:約5,500年前 -後期:約4,700年前 -晩期:約3,400年前 - 約2950年前

晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる。

縄文時代、各地でいくつかの文化圏に分かれて離合集散を繰り返していたが、縄文後期には、ナラ林文化圏と照葉樹林文化圏に2分された。ナラ林文化圏のほうが、クリの利用など人口は多かった。クリは栽培種であり、その他の野菜や雑穀の農業も各地で行われていた。しかし、水田稲作は照葉樹林文化圏の北九州で起こった。

水田稲作の始まった、縄文晩期末と弥生草創期は、重なる。それは、水田稲作開始時期の土器が縄文土器の形をしているが、水田稲作の開始に合わせ、文化と土器統一性を持たせるため縄文を施された縄文土器をも、弥生土器と定義するためである。
弥生草創期の縄文土器と弥生土器

弥生草創期の菜畑遺跡で出土した土器は、縄文を施された櫛目文突帯土器である。その中に2,3%形は縄文土器だが、朝鮮半島の無文土器の作成技法を用いた土器が混じっていた。やがて、この作成技法が一般化し、遠賀川式の弥生土器が生まれる。この意味で、縄文土器は弥生土器の流れをくみ、朝鮮半島の無文土器の流れをも組んでいる。
縄文土器の美的評価 

縄文土器の持つプリミティブな美は、いわゆる「伝統的な日本の美」とは異なる性質のものであり、当初は美術的には評価されていなかった。岡本太郎1952年に著した論評『縄文土器 民族の生命力』によって、現代美術の立場から縄文土器の再評価や意義付けを行い、その後の日本文化論に大きな影響を与えた[7]
最古の縄文土器  文化圏と弥生土器 、集団移動と土器の系統

縄文時代は14000年ほど続き、文化圏やその系統は、必須である。今は、列島はひとまとまりと理解され散るが、当時は、日本列島はいくつかに分かれていた。それらの文化圏は、流動的で、変遷し、一つになったり分かれたりしていた。縄文時代14000年、稲作(水稲ではない)3000年である。縄文時代は、もちろん一括りに出来るが、多くの系統と文化圏に分かれる。
最古の縄文土器

日本の土器の出現は氷期が終了する前の事であり、世界的にみて非常に古いものだが、大陸側の極東地域[注 1]には、作成技法が異なるものの、同時期の土器文化の存在が知られ、東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に出現したとみられており、相互の関係が注目される。

現在見つかっている、日本列島の最古の土器は、津軽半島大平山元遺跡から出土した16,500年前の物である。この最古の土器に縄文は無いが、縄文土器に分類されている。時代は、縄文草創期とされる。草創期の土器の代表は北松浦半島泉福寺洞窟等から出土した豆粒文土器(最新の調査で約16,000年前)・草創期中期の隆起線文土器南九州や北松浦半島が中心であった。その後、草創期の後半である13.300年前頃から本格的に縄文がほどこされた縄文草創期の土器が出現。
鬼界カルデラ噴火 と 中心の移動

縄文早期に末頃、九州の南端の海上、屋久島の西50kmにある、鬼界カルデラは度々噴火していたが、約7300年前大噴火して、当時の縄文時代の中心であった九州の縄文を完全に破壊した。降り積もった火砕流と火山灰は1mを超え(火砕流30cmとする文献もある)、1000年間、人がほとんどいない無人の地になった。これ以後、縄文の中心は、東北と関東の東日本に移る。こうして、縄文の前期は、7200年前に始まり、その中心は、東北、関東となった。
縄文晩期の文化圏と土器

縄文土器から弥生土器に移る時期、縄文人の文化交流圏は、尾張の中心部を境界に、東日本と西日本の文化圏に分かれていた。一方の西日本は、装飾の少ない簡素な土器が中心となる。弥生前の代表的な土器は、刻目突帯文土器である。この土器は、やがて北九州で、弥生土器、遠賀川式土器に変わっていった、


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