緒方竹虎
[Wikipedia|▼Menu]

日本政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}緒方 竹虎(おがた たけとら)

生年月日1888年1月30日
出生地山形県山形市旅籠町
没年月日 (1956-01-28) 1956年1月28日(67歳没)
死没地東京都品川区五反田
出身校早稲田大学専門部政治経済科卒
東京高等商業学校(現・一橋大学)中退
前職朝日新聞社代表取締役副社長
所属政党(無所属→)
自由党→)
自由民主党
称号正三位
勲一等旭日大綬章
親族二男・緒方研二
三男・緒方四十郎
義娘・緒方貞子
第8代 北海道開発庁長官
内閣第5次吉田内閣
在任期間1954年7月27日 - 1954年12月10日
副総理
内閣第4次吉田内閣
第5次吉田内閣
在任期間1952年11月28日 - 1954年12月10日
第8代 内閣官房長官
内閣第4次吉田内閣
在任期間1952年10月30日 - 1953年3月24日
第52代 内閣書記官長国務大臣兼任)
内閣東久邇宮内閣
在任期間1945年8月15日 - 1945年10月5日
衆議院議員
選挙区旧福岡1区
当選回数3回
在任期間1952年10月2日 - 1956年1月28日
その他の職歴
国務大臣情報局総裁)
1944年7月22日 - 1945年4月7日
自由民主党総裁代行委員
1955年11月15日 - 1956年1月28日
第2代 自由党総裁
1954年12月8日 - 1955年11月15日
貴族院勅選議員
1945年8月15日[1] - 1946年1月11日[2]
テンプレートを表示

緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年明治21年〉1月30日 - 1956年昭和31年〉1月28日)は、日本ジャーナリスト政治家朝日新聞社副社長・主筆自由党総裁、自由民主党総裁代行委員国務大臣情報局総裁内閣書記官長内閣官房長官副総理などを歴任。栄典正三位勲一等旭日大綬章。二男の緒方研二は元日本電気 (NEC)副社長。三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。兄の緒方大象は医学者・九州大学名誉教授、弟の緒方龍は医師。
来歴
幼少期から学生時代

緒方姓は備中国後月郡簗瀬村出身の祖父・大戸郁蔵大坂適塾を開く豊後国豊後大神氏の血筋を引く緒方洪庵へ入門して、洪庵と義兄弟の盟を結び、その姓を与えられたことにはじまる[3]山形県書記官・緒方道平の三男として現在の山形県山形市旅籠町に生まれ、4歳の時、父の福岡県書記官への転任で福岡県福岡市に移る。父は第2次松方内閣によって福岡県書記官を退官させられた後、福岡農工銀行頭取を務めた。父は退官させられたことが腹に据えかね、子供たちに「お前らは一生役人になるな」と言ったという。

福岡師範学校附属小学校から福岡県立中学修猷館に進学。緒方は小学校から中学校を通じて、無欠席・無遅刻・無早退を通した。修猷館の1年上級に中野正剛、同期に安川第五郎斎村五郎がいる。12歳で一到館に入門して剣道を習い始め、修猷館時代に小野派一刀流免許皆伝となり、既に剣道の達人の域に達した。終生交友を保った斎村五郎は「あの人が剣道一本に精進していたら、ぼくなどよりはるかに強くなっていたろう」が口癖だったという[4]。博多銘菓鶏卵そうめんが大好物で鶏卵素麺で巣を模した鶴の子を愛していた。

1906年(明治38年)修猷館卒業後、中国貿易を志して東京高等商業学校に進学する[5]が、同学校の専攻部廃止の文部省令に反対し学生総退学決議を行った申酉事件のリーダ?として責任をとり武井大助らとともに退学。のちに算盤簿記が不得手で、退学したと述懐している。中野正剛に誘われ、申酉事件を支持して東京高商退学生受け入れを表明していた早稲田大学専門部の政治経済科に編入し、政治結社玄洋社の最高実力者・頭山満[注釈 1]、さらに頭山を介して三浦梧楼犬養毅古島一雄らの門に出入りした。
朝日新聞社での活躍
若手記者時代

1911年(明治44年)7月に早稲田大学専門部を卒業[6]後、やはり中野正剛に誘われ、同年11月大阪朝日新聞社に入社して弓削田精一率いる大阪通信部員(東京勤務)となる。新人記者でありながら、学生時代から出入りしていた枢密顧問官三浦梧楼から「大正」の年号をスクープした。当時の朝日新聞社内において、村山龍平鳥居素川派と上野理一西村天囚派との間で激しかった派閥対立で、弓削田は上野・西村派に属し、弓削田が村山と対立して退社すると、緒方は1916年大正5年)12月、外勤を外され整理課員に左遷された。

だが白虹事件で村山・鳥居派が退陣し、上野・西村派が新聞編集の中枢に返り咲くと、同派の客員、本多精一の下で30歳で大阪朝日新聞社論説班の幹事に抜擢されて論説班を切り盛りした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:127 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef