緒方正規
生誕1853年12月5日(嘉永6年11月5日)
肥後国八代郡河俣村小字鶴(現・熊本県八代市)
死没 (1919-07-30) 1919年7月30日(65歳没)
国籍 日本
研究分野衛生学、細菌学
出身校東京帝国大学
プロジェクト:人物伝
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緒方 正規(おがた まさのり、1853年12月5日(嘉永6年11月5日) - 1919年(大正8年)7月30日)は日本の衛生学者、細菌学者。東京帝国大学医科大学学長、東京帝大教授。日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した。 1853年肥後国に熊本藩医緒方玄春の子として生まれる。古城医学校を経て、1880年東京大学医学部を卒業。 翌年ドイツのマックス・フォン・ペッテンコーファーのもとに留学、ミュンヘン大学で衛生学を学んだ。また、1882年からはベルリン大学で、ロベルト・コッホの弟子であるフリードリヒ・レフラーに細菌学を学ぶ。
経歴
1885年に脚気の病原菌を発見したと発表するが、ドイツ留学中の北里に実験の不備を指摘され病原菌発見を否定された。現在では北里が正しかったことが分かっている[2]。赤痢や後述のペスト菌の研究でも二人は対立しあい、研究面で何かと対決することが多かった。しかし、私生活では晩年まで交流が続き、緒方の葬儀では北里が弔辞を述べている[3]。
1886年帝国大学医科大学の衛生学初代教授となる。
1896年、台湾でペストが流行したときに現地調査を行い、ペスト菌に対する北里の研究(1894年)の誤りを指摘した。北里が単体分離したと思っていた病原菌には、実はペスト菌を含む2種類の菌が含まれており、この誤りを北里は認め自説を撤回している[3]。また、ペストはネズミのノミを媒介として流行することを証明し、ドイツの専門誌に発表した[4]。
1898年に医科大学学長をつとめ、東京学士会院会員[5]、第5回日本医学会総会会頭[6]などを歴任した。
1919年、食道癌を患って静養していたが、気管支・肺に転移し、肺壊疽も併発して同年7月30日に死去[7]。墓所は染井霊園(1イ5-8)。 妻のエツ(1870年生)は石原豊貫の次女[8]。石原は農商務権少書記官で[9]、パリ万国博覧会 (1878年)では内務一等属・仏国博覧会事務官を務めた[10][11]。 長男の緒方規雄
家族・親族
寄生虫学者・衛生動物学者の佐々学は孫。薬理学者の橋本敬太郎は曾孫。
栄典・授章・授賞
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[12]
1897年(明治30年)10月30日 - 正五位[13]
1901年(明治34年)3月20日 - 従四位[14]
1911年(明治44年)6月20日 - 従三位[15]
1919年(大正8年)7月31日 - 正三位[16]
勲章等
1901年(明治34年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[17]
1908年(明治41年)12月25日 - 勲二等瑞宝章[18]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[19]
1919年(大正8年)
2月27日 - 勲一等瑞宝章[20]
7月31日 - 旭日大綬章[16]
出典[脚注の使い方]^ “ ⇒緒方正規”. 弥栄の杜から. 2010年7月31日閲覧。
^ “ ⇒科学における理論「評価」問題を考えるための歴史的事例(1) 事例2>緒方正規の「脚気病菌」の発見”. 佐野研究室. 2010年7月31日閲覧。
^ a b “ ⇒北里柴三郎”. 弥栄の杜から. 2010年7月31日閲覧。
^ “ ⇒北里柴三郎と緒方正規”. 2010年7月31日閲覧。
^ “物故会員一覧 (50音順) ア行”. 日本学士院. 2010年7月31日閲覧。
^ “概略 - 日本医学会”. jams.med.or.jp. 2023年1月16日閲覧。
^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)76頁
^ ⇒緒方正規『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
^ 『皇典講究所講演: 第101-110号』皇典講究所, 1893年、百一の六十一頁
^ 『東洋研究, 第 73?76 号』大東文化大学東洋研究所, 1985、p99
^ 第二篇日本部第一章事務官之事仏蘭西巴里府万国大博覧会報告書. 1(仏国博覧会事務局, 1880)
^ 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
^ 『官報』第5312号「叙任及辞令」1901年3月22日。
^ 『官報』第8398号「叙任及辞令」1911年6月21日。
^ a b 『官報』第2098号「叙任及辞令」1919年8月2日。