(極東ウクライナ共和国が掲げた旗[1][2])
極東ウクライナ共和国の領土(黄色)
公用語ウクライナ語
首都ニコラエフスク・ナ・アムーレ
極東会議議長
1920年 - 1922年ユーリ・フルスコ=モヴァ
変遷
設立1917年6月11日
独立1918年4月
滅亡1922年10月25日
現在 ロシア
緑ウクライナ(みどりウクライナ、ウクライナ語: Зелений клин, Zelenyy klyn、ロシア語: Зелёный Клин, Zeljonyj Klin、英語: Green Ukraine)は、アムール川から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地の名称である。緑の楔とも言う。
1917年のロシア革命以降、極東ウクライナ共和国がウクライナ人によってロシア極東に建国されることが計画された。ボリシェヴィキの極東共和国が1920年4月6日に設置されると、ウクライナ人が多数であった極東はこの国家を脱して緑ウクライナと呼ばれる国家の建設を試みた。しかし、この運動はすぐに失敗した。 アムール川近郊からウスリー近郊、ハバロフスク、ウラジオストク。 現在の極東と同様の海岸線を持っていた。 ウクライナにおいて、ウクライナ人は主に農村に住んで農業を営んでおり、ロシア人やユダヤ人などの多い都市部にはあまり住んでいなかった。当時のウクライナ人は都市を敬遠しており、19世紀末のウクライナで進展した都市化や工業化では主にロシア人が流入した一方、ウクライナ人はウクライナ内の炭坑や工場で労働者となるよりもむしろ国外や辺境で農地を持つことを望んだ。多くのウクライナ人がカナダやアメリカ合衆国の農業地帯に移民したほか、ロシア帝国内では人口希薄な東方、中でも極東に移動して農業を営んだ。 ロシア極東のアムール川から太平洋岸にかけては、ゼレニークリン (Zeleny Klyn ウクライナ語: Зелений клин)、あるいはゼレニーウクライナ、東部ウクライナと呼ばれておりウクライナ人に殖民された地域であった。これらはウクライナ人の植民者が名づけたものである。 これらの領域は100万平方キロメートルを含む広大な土地でウクライナ人の人口は1926年には人口の41%から47%に達していた。なお総人口は1958年の時点で人口は310万人であった。 ゼレニー・クリンがロシア帝国の一部になったのは、シベリアやこの地域を除く極東と比べて遥かに遅かった。この地域への殖民への最初の試みは中期17世紀にさかのぼることができる。この時ハバーロフがアムール川岸のアルバジンに要塞を築いている。このとき以来、絶え間なく斥候兵が満州地方で小競り合いを起こすようになった。1669年にはネルチンスク条約が締結され、アムール川を境として北部がロシアの領土となった。 19世紀中期、ロシアが1853年から1856年の間に起こったクリミア戦争に敗北すると、ロシアは第二次東方拡大を行った。多くのコサック殖民がアムール川近郊に設置された。このときロシアより圧倒的に武力に劣っていた清帝国はロシアとの戦争を避け、1853年にアイグン条約とプリモルスク条約を1860年に締結し、現在の国境線になった。
略歴
1917年6月24日 - 第一回全ウクライナ人極東会議がニコラエスクウスリースキーで極東会議(Kray Rada)を構成する
1918年2月、第二回全ウクライナ極東会議がハバロフスクで開かれる。地理的には接続していなかったものの緑ウクライナがウクライナ国の一部として宣言される。
1918年4月 - 第三回全ウクライナ極東会議が独立したウクライナ国家を太平洋岸に設立するか問う。
1918年 - 極東ウクライナ軍が編成される。兵力は5000人以上でありボリス・フレスチャティスキー(英語版)が指揮官となった。
1920年4月11日 - ヘトマンの地位にあったグリゴリー・セミョーノフは極東ウクライナ共和国の権威のために民族自決と、極東のコサック、ブリヤート人、ウクライナ人の境界内での自治を唱えた。
1922年 - 赤軍との対立後、崩壊、解散。
会議の議長
1918年6月 -1919年 - ユーリ・フルスコ=モヴァ(一期目)
1920年1月 -1922年 - ユーリ・フルスコ=モヴァ(二期目)
領域
水界地理学
設置の歴史