総裁政府
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総裁政府
Directoire

第二次総裁政府の総裁、左からメルラン・ド・ドゥーエー(英語版)、ラ・ルヴェリエール=レポーバラス、フランソワ・ド・ヌフシャトー(英語版)、ジャン=フランソワ・ルーベル
組織の概要
設立年月日1795年11月2日
継承前組織.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

国民公会

解散年月日1799年11月10日
継承後組織

統領政府

管轄第一共和政

フランスの歴史

この記事はシリーズの一部です。
先史時代(フランス語版、英語版)
古代

ガリア人 · ガロ・ローマ人 · フランク人

中世

フランク王国 
メロヴィング朝481–751
カロリング朝751–987
西フランク王国 
フランス王国 
カペー朝987–1328
ヴァロワ朝1328–1498

近世

ヴァロワ=オルレアン朝1498–1515
ヴァロワ=アングレーム朝1515–1589
ブルボン朝1589–1792

近代

フランス革命1789
立憲王政1791–1792
第一共和政1792–1804
 • 国民公会1792–1795
 • 総裁政府1795–1799
 • 統領政府1799–1804
第一帝政1804–1814/1815
 • 百日天下1815
復古王政1814–1830
七月革命1830
七月王政1830–1848
二月革命1848
第二共和政1848–1852
第二帝政1852–1870
第三共和政1870–1940
パリ・コミューン1871

現代

ナチス・ドイツの侵攻
ナチス・ドイツの占領
ヴィシー政権
自由フランス
パリの解放1940–1944
共和国臨時政府1944–1946
第四共和政1946–1958
第五共和政1958–現在

テーマ別

旧州 · 植民史 · 文化史 · パリ史

年表
フランス ポータル
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総裁政府(そうさいせいふ、フランス語: Directoire)は、1795年11月2日から1799年11月10日までのフランス行政府である。国民公会の後、統領政府の前にあたる。5人の総裁が行政を担当し、二院制の議会が立法を担当した。フランス史で総裁の時代と呼ばれるこの政権の期間は、フランス革命の最後から2番目の段階にあたる。総裁政府の後、統領政府を経て第一帝政へと続く。
ロベスピエールの失脚

1793年のフランスでは、過激な政策を掲げるジャコバン派ロベスピエールらが実権を握っていた。彼らは有力者を次々と死刑や海外に流刑するという恐怖政治を実施したが、これに追随してパリ以上に過激な政策を実施する派遣議員らの専横と腐敗がフランス全土に広がっていた。このためロベスピエールらは派遣議員をけん制しようとしたが、1794年7月27日共和暦2年テルミドール9日、テルミドールとは共和暦で熱月の意)、ジャコバン穏健派と派遣議員ら既得権益層が反ロベスピエール派として団結し、テルミドール9日のクーデターを実行。ロベスピエール派を処刑し、権力を掌握した。このときに先鋒を務めたのがバラスタリアンフーシェらである。ナポレオンも、バラスの配下として活躍している[1]
テルミドール派の政治

この時に権力を掌握した者らはテルミドール派と呼ばれる[2]。ただし、ロベスピエール派と対立する集団というだけの関係であり、政策上は必ずしも一致していなかった。これ以後のフランス政府は、革命の理想に燃える革命派と、急激な改革を嫌う王党派との2派が対立することとなる。ただし王党派と言えども必ずしも王政復古を望んでいるわけではなく、ややもすると行き過ぎることの多い革命派に対して、古い体制を否定しないという立場であった。

テルミドール派はこれまでの政治制度を大きく変えた。まず経済では1794年12月24日までにかけて、輸入自由化、統制価格の撤廃が徐々になされた。ただし、このため猛烈なインフレが起こって国債アッシニアの暴落を招き、後の総裁政府破綻の原因の一つとなる。一方で武器商人や金融業者など資本を集める者も出た[2]1795年2月21日聖職者民事基本法が撤廃されて、政教分離原則が取られ、信教の自由が保障された[2]。政府の祭式予算が撤廃された一方で、1795年5月30日には教会に祭祀が再び許された[3]。行政は、公安委員会の権限が軍事と外交に縮小され、保安委員会が引き続き警察権を持ち、立法委員会が大きな権限を握った。各委員会は毎年4分の1ずつ入れ替わり、再任されるには1ヶ月の間を置くこととされた[4]
周辺国との関係詳細は「フランス革命戦争」を参照

テルミドール派が政権を取ってからも、戦争はしばらく続けられた。例えば1794年9月にはオランダに向けて侵攻を始めている。しかし、内乱と財政状況の悪化で国が疲弊していたため、1795年春以降、政府は戦争状態にあった国々と講和を結んでいく。まず1795年4月5日バーゼルの和約プロイセン王国と比較的有利な条件で講和した。続いて5月16日にはオランダと講和を結ぶ。さらに7月22日にはスペインともフランスに有利な講和条約を結ぶ。

しかしオーストリアとの講和には失敗して戦争が続けられ、10月1日にはベルギー併合に成功する。ただしライン川を挟んだ戦いでは敗れ、12月になってようやく停戦となる[5]。しかしこれは一時的なものであり、翌年6月に戦闘は再開される。
共和暦3年憲法の制定

テルミドール派は1795年、革命色の強すぎる1793年憲法を修正して、共和暦3年憲法を制定した。2ヶ月の議論の後[6]1795年8月22日に普通選挙制による採否を問う投票が行われ、投票数105万に対し、反対はわずか5千票だった。

憲法を受けて行われる最初の選挙ではテルミドール派よりも王党派の方が有利と予想された。そのため、テルミドール派は「退職後の議員の職が保証されていないため、新たに議員に立候補する者は少ないであろう」と主張して、国民公会から3分の2の議員を留任させる法案を提出し、憲法と合わせて採択された。

この採決を受けて9月23日、新憲法が公式に発足した。

これに対して各派、とりわけ王党派は選挙妨害があったとしてパリで集会を開いた。1795年10月5日、これがヴァンデミエールの反乱と呼ばれる暴動に発展したため、政府はポール・バラスに事態の解決を命じた。それを受けて若きナポレオン・ボナパルトが副官として2、3千の政府軍とよく訓練された大砲隊を指揮し、軍事力に劣る反乱軍を翌日には鎮圧した。
共和暦3年憲法の内容

この憲法は権力分立を旨としており、立法権、行政権、徴税権それぞれの独立が謳われた。また、条文は124条から377条にまで増やされた[7]

選挙権に関しては、普通選挙が廃止され、一定の税を納めている者にのみ認められた[8]。これにより、成人男子700万人のうち有権者は500万人となった[7]

立法権は五百人会元老会(250人)の二院制とされた。これは一院制では極端な法案がすぐに通ってしまうのを防ぐのが狙いであった。両院とも毎年3分の1が改選された。五百人会議員は25歳以上、元老会議員は40歳以上かつ既婚者または寡夫(妻と死別した人)でなければならなかった。五百人会の法案に対し、元老会には修正権が無く、拒否権のみがあった[7]

行政権は、5人の総裁に委ねられた。任期は5年とされ、毎年1人ずつ改選されることになった。総裁は五百人会が1人のポストにつき10名の候補のリストを作り、その中から元老会が選んで決められた。選任後の総裁は議会に罷免されることはないとされた。総裁の権限は行政と外交にあり、立法権は無かった[7]。また、各官庁の長官が総裁を補佐したが、長官は内閣や議会の一員ではなく、政府全体を動かす権限がなかった。

徴税権は行政権と別途に6人の経理官に委ねられた。経理官は総裁の命令を受けることはないとされた[8]

その他、信教の自由報道の自由職業選択の自由が保証された。一方、集会の自由は認められなかった。ただし個人、組織のいずれにも政府への請願書提出が認められた。また、聖職者の中には、憲法と神に共に忠誠を誓うことに矛盾を感じるものも多く、憲法への宣誓を拒否する者(忌避僧侶 (en) )も多く現れた。このような忌避僧侶の人権は制限された。
共和暦3年憲法の実施

新憲法下での初めての選挙が1795年10月20日に行われ、10月26日に国民公会は解散した[9]10月31日に総裁が選出された。

総裁に選ばれたのはルーベルバラスラ・ルヴェリエールカルノール・トゥルヌールであった。


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