総統
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この項目では、「総統」という単語について説明しています。中華民国元首については「中華民国総統」をご覧ください。

総統(そうとう、英語: fuhrer, fuhrer、ドイツ語: Fuhrer、中国語: 元首)とは、「全体をすべくくること」[1]国政軍事全体を統括すること[2]、またはその統括者[2]、最高指導者(the Supreme Leader)[2]、最高主権責任者(Chief Sovereign Officer)[3]。特にナチ哲学決断主義などの全体主義的体制において、総統または指導者は、強い精神力を持ち唯一神に似た立場として国家の運命を決定するとされており、その典型例は指導者原理とされる[4][5]。「元首」、「指導者原理」、「第三帝国」、および「千年帝国」も参照

日本での用例はナチス・ドイツを始めとする全体主義国家の元首・最高指導者を指す総統(Fuhrer)と、中華民国の元首を指す総統(the President)とに大別される。
ドイツ

ドイツ国
指導者兼ドイツ国首相
Fuhrer und Reichskanzler
総統旗
アドルフ・ヒトラー
種類国家元首首相、民族指導者
呼称閣下、私達の(我が)総統(Mein Fuhrer)
庁舎総統官邸
ベルクホーフ
ヴォルフスシャンツェ
指名ドイツ国政府(国家元首)[6]
任命パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領(首相)[7]
根拠法令なし[8]
前身パウル・フォン・ヒンデンブルク
大統領[9]
クルト・フォン・シュライヒャー首相
創設1934年8月2日[6]
廃止1945年4月30日
継承カール・デーニッツ
大統領
ヨーゼフ・ゲッベルス
首相
俸給年額 4万5,000ライヒスマルク[10]
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ドイツ歴史における総統(Fuhrer)は、ナチス・ドイツの最高指導者、アドルフ・ヒトラーの地位に用いられる。
語義

ドイツ語でヒトラーの地位を意味する語は、固有名詞化した「Fuhrer(フューラー)」である。本来の原語におけるフューラーとは、国家の指導者のみならず、軍隊における各編成単位の指揮官や、官公庁における指導的な立場にある役人、自動車鉄道車輌運転手、または山岳ガイドといった、「複数の人間の生命を預かる重責を担う職位者」の一般的な呼称としても用いられる。また、手引書や案内書を指す用法もある。
政治運動におけるフューラー

このような意味を持つ「フューラー」が、政治運動の指導者の肩書きとして使用される端緒となったのは、オーストリア=ハンガリー帝国においてドイツ国民運動(ドイツ語版)を率いたゲオルク・フォン・シェーネラーが、1879年に自らの肩書きとして、「Fuhrer der Deutschnationalen Bewegung(ドイツ国民運動の指導者)」を用いたことである。第一次世界大戦におけるドイツ帝国敗戦後に成立したワイマール共和国にて生まれた多くの政治団体も、指導者の名称として「フューラー」を採用した。
ヒトラーの地位
ナチ党のフューラー

1921年7月29日、ヒトラーは国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の幹部会によって、第一議長に就任した。この頃からヒトラーの支持者であるディートリヒ・エッカートルドルフ・ヘスらの党幹部は、彼への呼称として「フューラー」を用い始め、次第に党内に定着した[11]。ただし、ヒトラー自身は「フューラー」の語がどうして生まれたか知らないと語っている[12]。ヒトラーはナチ党内の支配体制として、「指導者原理」を採用した。これは党内を階層化し、各階層はそれぞれのフューラーに従い、それらは上位のフューラーにのみ任命され、従属しなくてはならないという仕組みである。

また、党内組織である突撃隊親衛隊国家社会主義自動車軍団などの指導者には、親衛隊全国指導者(Reichsfuhrer‐SS)や上級大隊指導者(Obersturmbannfuhrer)のように、語に「フューラー」が付属した役職名が用いられている。ゲルトルート・ショルツ=クリンク(ドイツ語版)が就任した「全国女性指導者(Reichsfrauenfuhrerin)」は、女性型の「フューレリン(Fuhrerin)」が用いられている。
首相期のフューラー

1933年1月、ヒトラーは首相に就任し、政権を掌握した。この時の彼の公文書での官職名は、「ドイツ国首相(der Reichskanzler)」[13]であり、全権委任法への署名などはこの肩書きで行ったが、ナチ党員からは「der Fuhrer und Reichskanzler(指導者兼ドイツ国首相)」と呼ばれた。ヒトラーは就任直後に議会を解散し、選挙活動を開始した。この選挙中の2月1日、ナチ党は「われわれは国民と国家の指導者(nationale Fuhrer)として神に対し、我々の良心に対し、わが民族に対し、われわれに与えられた使命を断固実現することを誓約するものであります」[14]というアピールを行った。

1933年3月ドイツ国会選挙がナチ党の圧勝で終わった後の3月21日、国会開会式においてヒトラーは次のような演説を行った。自らの民族への信頼に根ざし、新たな共同体を形成せんとするドイツ統一の新しい運動が生まれました。この若いドイツに対し、閣下は高潔な決断をもって、1933年1月30日、ライヒの指導を託されたのです。 ? 南利明「指導者―国家―憲法体制の構成」(2003)pp.3?4

これは、ヒトラーがナチ党の勝利を、従来の統治とは異なる「ライヒ指導」、すなわち「ナチ党及びその指導者であるヒトラーが民族とライヒ(国)を指導する」という新たな政治形態が信任されたと定義したものであった[14]。この定義は、ナチ党の公式見解となり、第5回ナチ党党大会で、ヒトラーは「ナチス党は、1933年1月30日、ライヒの政治指導を委託された」と演説し、ヘスも「党が民族意思を組織的に表現する。それ故、党が国民と国家(Nation)指導の担い手であり、当然の結果として、党の指導者が国民と国家の指導者となったのだ」「あなた(ヒトラー)は、国民と国家の指導者として、われわれの最終的勝利の保証人なのです。われわれは、あなたの中に体現された国民と国家の指導者に対し心より歓迎の意を表するものです」と応じた[15]
ドイツ国のフューラー第8回ナチ党党大会にて、総統旗を背にするヒトラー(1936年9月)

1934年8月1日パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が危篤になると、ヒトラー首相率いるドイツ国政府は、「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律(ドイツ語版)」を制定した。この法律の第1条には、ヒンデンブルクの死後に、ドイツ国大統領の官職はドイツ国首相の官職と統合される。それにより、ドイツ国大統領の従来の権限は、指導者兼ドイツ国首相アドルフ・ヒトラー(der Fuhrer und Reichskanzler Adolf Hitler)に委譲される。彼は自らの代理人を定めるものとする

とあり、単に首相職と大統領職の統合だけではなく、大統領の権限が、国家内の官職ではない人格としての「指導者兼ドイツ国首相アドルフ・ヒトラー」個人に委譲されるというものであった[16]。この法律は1934年4月1日に公布されたライヒ新構成法(ドイツ語版)の「ライヒ政府は新憲法を制定することができる」という規定を法的根拠としている[17]。また翌日、ヒンデンブルクの死去に伴って内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対して発されたヒトラーの布告「元首法の執行に関する命令」には、「内閣により決定され、かつ憲法に基づき合法的に私の人格及びドイツ国首相職に対しかつてのライヒ大統領の権限が委任された」と記述されている[18]

この「指導者兼ライヒ首相アドルフ・ヒトラー」という称号は、文字どおり、ヒトラーの人格を介した運動と国家の結合という、前例のないものであった。ヴァイマル共和国すべての大統領府長官をつとめたオットー・マイスナーは「今回の立法措置により、フューラーは「国家の機関(Staatsorgan)」となり、また「国家の人格(Staatspersonlichkeit)」となった」と主張している[18]。一方で内務省次官ヴィルヘルム・シュトゥッカートは「フューラーの官職は国家法的に何か全く新しいものである」とし、「独裁者でも、絶対君主でもない。彼はまた立憲君主や大統領とも比較可能なものではない」としているが、あくまでも官職であると解釈している[19]。一方で法学者ハインリヒ・トリーペル(ドイツ語版)は「指導者は通常の法律用語の意味で官職を有するものではない」とし、ラインハルト・ヘーン(ドイツ語版)もまた「フューラーと官職の保持者は本質的に異なるものである」とした[19]。ヒトラー自身は「10年もすればフューラーという呼称は非人格的性格を持つようになるだろう」、「『首相』の代わりの公式名として『総統』という称号を使うことになっても私はいっこうにかまわない」、「つまらない人間が組織の『長』に選ばれることはありうるが、誰にでも総統の称号がふさわしいわけではない」[12] と、通常の官職と同一視していない。結局、フューラーやその権限を定義する法律は、最後まで成立しなかった[20]

これにより、国家の枠外にあり、国家を超えるフューラー(総統)が国家の上に立ち、憲法体制を支配するという体制が完成した[18]。この手続きは、8月2日のヒンデンブルクの死とともに発効した[18]。しかし、ヒトラーはこの措置の正統性を問う投票を要求した[18]。総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが全く不必要な措置としているように、投票はヒトラーの法的地位に関して影響を及ぼすものではなかったが[18]


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