総武鉄道_(初代)
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この項目では、東京駅 - 銚子駅間を結ぶ本線と、錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間の支線および小岩駅 - 金町駅・越中島貨物駅間の貨物支線について説明しています。本線を中核とする鉄道路線群の総称の「総武線」については「総武線」をご覧ください。

総武本線
東京駅 - 銚子駅間で運転される
255系による特急「しおさい」
基本情報
通称総武快速線東京駅 - 千葉駅間の快速線
総武緩行線(千葉駅 - 御茶ノ水駅間の緩行線)
日本
所在地東京都千葉県
種類普通鉄道在来線幹線
起点東京駅[1](本線)
錦糸町駅(支線)
終点銚子駅[1](本線)
御茶ノ水駅(支線)
駅数49駅(貨物駅および金町駅を含む)
電報略号ソムホセ
路線記号(東京駅 - 千葉駅間の快速線及び千葉駅 - 佐倉駅間)
(御茶ノ水駅 - 千葉駅間の緩行線)
開業1894年7月20日
所有者東日本旅客鉄道(JR東日本)
運営者東日本旅客鉄道(JR東日本)
日本貨物鉄道(JR貨物)
路線諸元
路線距離120.5 km (東京-銚子間)
4.3 km (錦糸町-御茶ノ水間)
8.9 km (小岩-金町間)
11.7 km (小岩-越中島貨物間)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
線路数複々線(錦糸町-千葉間)
複線(東京-錦糸町間・錦糸町-御茶ノ水間・千葉-佐倉間)
単線(上記以外)
電化方式直流1,500 V 架空電車線方式
(越中島支線は非電化)
最高速度130 km/h (81 mph)

路線図


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総武本線(そうぶほんせん)は、東京都千代田区東京駅から千葉県銚子市銚子駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線幹線)である。このほか、東京都墨田区錦糸町駅で分岐して御茶ノ水駅に至る支線(いわゆる総武緩行線)、小岩駅新小岩信号場駅)から分岐して金町駅および、越中島貨物駅に至る貨物支線を持つ。電車内や駅構内の旅客案内上は主に千葉駅から銚子駅の区間がこの名称で呼ばれる(後述)。

なお、『鉄道要覧』やJRの事業基本計画上は錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間となっているが、東京駅 - 錦糸町駅間開業以前の起点である御茶ノ水駅には現在も0キロポストが存在する。

東京駅 - 千葉駅間および御茶ノ水駅 - 千葉駅間については、以下の記事も参照。

横須賀・総武快速線(東京駅 - 千葉駅間)

中央・総武緩行線(御茶ノ水駅 - 千葉駅間)

概要

東京都の都心から東へ伸び、そのベッドタウンである千葉県西部の各都市、同県の県庁所在地であり政令指定都市である千葉を通り、同県最東端の銚子へ至る路線である。東京と千葉県北東部の各地を結ぶ特急列車が東京駅 - 銚子駅間を通して運行されているほか、都心から成田国際空港へアクセスする特急「成田エクスプレス」が当路線を経由している。

千葉駅以西は電車特定区間に指定されており、区間外よりも割安な運賃が適用される。このうち錦糸町駅 - 千葉駅間は、各駅停車の電車が走行する総武緩行線と、快速電車や特急列車が走行する総武快速線が並行する線路別複々線となっている。この区間は「総武線」と呼ばれることが多く、「総武本線」と呼ばれる場合は特急列車は東京駅 - 銚子駅間、ローカル列車は千葉駅 - 成東駅 - 八日市場駅 - 銚子駅間を指すことが多く、JR東日本ウェブサイトの路線案内においてもそのようになっている[2]。ただし必ずしも統一されておらず、車内の路線ネットワーク図や発車標、駅の時刻表などでは千葉駅以東も「総武線」と表記している場合もある[3]。なお、『鉄道要覧』においては全線通して「総武線」となっている。

貨物支線を除き旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カードSuica」の首都圏エリアに含まれている。千葉駅以東では路線案内に用いられるラインカラーとして黄色(■)が用いられている。
歴史

本節では、千葉県内の鉄道敷設運動前後から総武鉄道設立、路線開業及び国有化以降の総武本線全体の沿革について記述する。総武快速線開業以降の快速線の沿革については「横須賀・総武快速線#歴史」を、
中央本線との相互直通運転開始以降の緩行線の沿革については「中央・総武緩行線#歴史」を参照
背景

1872年明治5年)に日本最初の鉄道が新橋駅(後の旧国鉄汐留駅) - 横浜駅(現在の桜木町駅)間に開通し、その後、1884年(明治17年)に日本鉄道会社が上野駅- 高崎駅間に民営鉄道を開業して良好な営業成績を上げたことなどをうけ、明治10年代後半に全国的な民営鉄道建設ブームが起きた。千葉県内でも鉄道敷設の機運が高まったが、当初は資金面から馬車鉄道の計画が多かった[4][5]
初期の鉄道敷設運動

千葉県内では1886年(明治19年)頃から蒸気機関車による鉄道建設の運動が始められ、1887年(明治20年)11月に佐原の伊能権之丞らが発起した武総鉄道会社と、成東安井理民らが発起した総州鉄道会社が相次いで創立の申請を行った。しかし、当時は従来からの水上交通の実績に対する評価が高く、また利根運河の開削も決まったばかりだったため、千葉県知事であった船越衛が鉄道敷設に対して慎重な姿勢をとるようになった。船越は両者に対し計画の翻意や合併を促してきたが、総州鉄道はこれに応じず東京府知事である高崎五六を通じて正式に鉄道敷設を出願した[6]。これを受けて船越もやむなく千葉県知事として武総鉄道を内閣に進達したが、「利根江戸両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局どちらも却下されている[4][5]
1887年(明治20年)11月に申請された計画ルート[5]
武総鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 成田 - 佐原総州鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 八街 - 芝山 - 八日市 - 銚子
総武鉄道

総武鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
東京府東京市本所区横網町1丁目[7]
設立1889年(明治22年)12月[7]
業種鉄軌道業
代表者社長 青田綱三[7]
資本金6,000,000円[7]
(払込高:4,800,000円)[7]
特記事項:上記データは1907年(明治40年)現在[7]
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上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の池田栄亮などの有力者を加え、1889年(明治22年)1月に総武鉄道株式会社を創立した。会社名称は上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)と武蔵国を結ぶことに因む。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに陸軍の支持が得られるように国府台津田沼佐倉(この計画線は直接通らないものの、習志野も隣接する)等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた[4][5]
 1889年(明治22年)1月に申請された計画ルート[5]
総武鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 八街

総武鉄道の狙いどおり「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする陸軍省の意見が決め手となり、1889年(明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は1893年(明治26年)8月となる[4][5]。なお、1892年(明治25年)に公布された鉄道敷設法で「東京府下上野ヨリ千葉県千葉佐倉ヲ経テ銚子ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ木更津ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された。このころになるとルートの候補地となった各地域で様々な鉄道誘致運動が行われるようになる。なお、千葉県各所(船橋・千葉・佐倉・芝山・飯岡・茂原・流山等)で鉄道反対運動が行われたとの言説が市町村史や小学校副読本などで取り上げられることがあるが、当時の文献や記録にこれらを裏付けるものはなく、単なる鉄道忌避伝説であるとされる[8][9]

1894年(明治27年)7月20日に市川駅 - 佐倉駅間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。直後の8月1日に日清両国で宣戦布告がなされ、早速日清戦争での兵員輸送に活用された。同年12月9日には江戸川を越えて本所駅(現在の錦糸町駅)に達した。総武鉄道は、1897年(明治30年)5月1日に成東駅まで、同年6月1日には銚子駅まで延伸され、佐倉駅成田鉄道との連絡も実現する[4][5][8][9]

両国橋から都心部への延伸は1899年(明治33年)に本所 - 秋葉原間の免許[注 1]を得て、1904年(明治37年)に両国橋駅(現在の両国駅)まで延伸され、ここを都心側のターミナルとした[4]。両国橋駅を利用する旅客はすでに開業していた路面電車(後の都電)に乗り継いだ。


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