総合選抜
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大学入学者選抜における「総合型選抜」とは異なります。

総合選抜(そうごうせんばつ)とは、主に日本の中等教育公立学校で実施されていた入学試験方式の一つで、学校間格差の解消を目的として、居住地や学力などによって合格者を学区内の各校に平均的に振り分ける制度。総選(そうせん)とも略される。最盛期の1975年?1981年では16都府県で実施されていたが、問題が指摘され現在ではほぼ全ての地区で廃止された。現在は兵庫県の但馬地区でのみ進学連携校方式として実施されている。

戦後に京都府知事蜷川虎三(当時)によって導入された。

総合選抜自体を「学校群制度」や「合同選抜」、「進学連携校方式」という名称を使用している地域もあり、制度の詳細は自治体学区によって微妙に異なる場合が多い。

一般的に総合選抜は「学校群制度」と同様に、小学区制度下かそれに近い形式で行われているのが通例であるが、学校群制度よりもさらに徹底した形で学校間の選択肢を減らし、代わりに全入を促進する入試形態をとるものである。

「合同選抜」は受験生が希望校を指定しその希望を一定程度考慮しつつ合格者を各校に振り分ける制度であり、総合選抜は、受験生による希望校の指定なしで合格者を各校に振り分ける制度である。

学校単位で選抜を行う一般的な方式は、総合選抜と対比して「単独選抜」と呼ばれる。

総合選抜は受験競争の緩和や高校間の格差・序列化の是正などを目的に制度化された。総合選抜は多くの場合、公立の普通科高校のみを対象に実施され、特に受験人口の多かった第2次ベビーブーム世代の高校受験期においては、対象となった高校間での受験競争や序列化の緩和に大きく貢献した。しかし当初から高校を自由に選べないといった反対の声が多く上がっていた。また、これにより公立高校を避けて私立高校や国立高校などに流れる受験生が増加し、一部の私立高校が難化する一方で多くの地域で公立高校が易化し進学実績が低下していった。
選抜方式

総合選抜は学区内の高校間の
学力格差を緩めることを目的としており、一般的に学力均等方式または居住地優先方式のいずれかの方式で実施される。

通常、総合選抜が実施される地域では小規模な学区割りが行われている。

学力均等方式
学区内の複数の高校を一つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、総合成績順位に基づいて受験生を男女別に複数の成績群に階層化し、各高校の合格者の成績分布が均等になるように各階層ごとに合格者をそれぞれの高校に振り分けて調整する。
居住地優先方式
学区内の複数の高校を一つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、各高校の周辺地域を固定区とし、隣接地域を調整区として、固定区で合格点に達した者はそれぞれの地域の高校に、調整区で合格点に達した者は居住地を勘案して隣接のいずれかの高校に振り分けて調整する。
成績優先方式(オプション)
学区内の複数の高校を一つの高校とみなし一括して願書申請させ、入試と調査書の総合成績により全体の合格者を決める。次に、調査書および学力試験の成績の良い合格者から順番に希望校への入学を許可する。この方式は居住地優先方式のオプションとして一部の成績上位者にのみ適用される場合がある。
メリットとデメリット

総合選抜は制度上のメリットとデメリットがはっきりしている。生徒個人にとっての受け止め方は、個人の意識、学力、または進路などによって大きく異なり、各地で議論の対象にはなったものの、何らかの妥協点に至るケースはまれである。
メリット

公立高校への進学にあたっては、一定水準以上の成績を確保するという大前提はあるものの、ほぼ確実に地元の公立高校に進学できるため、高校入試のための学習の負担が少ない。そのため、比較的ゆとりのある中学生活を送ることができる。導入当時は都市部においても公立高校が第一志望の受験生の半数程度は滑り止め校を受験しておらず、単独選抜学区と比べて高校入試への負担は相当少ないといえる。

特に受験人口の多かった第2次ベビーブーム世代の高校受験期には、受験競争の緩和、高校進学率の維持、中卒浪人の発生防止という点に効果があったのは確かである。

学区が小規模であったり居住地優先で進学高校が決められたりしている場合には自宅から至近の高校に通う生徒が多い。そのため、必然的に徒歩や自転車での通学が大半となるので通学時間が短くなるとともに、電車やバスなどの公共交通機関の混雑が緩和される。また、学区内の高校間の学力差が少ないためいわゆる序列がほとんど存在しない。
デメリット

一般的には選択可能な公立高校が非常に少なくなり、その中の志望校であっても、実力があっても必ずしも希望の学校に進学できるとは限らなくなる。定員、分布、成績などにより本来の志望校への進学が事実上不可能な場合もある。学区内の高校間の学力差は少なくなるが、これによって逆に一つの高校内での生徒間の学力差は非常に大きくなり、落ちこぼれ浮きこぼれの生徒が単独選抜の高校よりも多く発生する。また、総合選抜は高校入試の負担が少ない分だけ学力の低下を招き、公立高入試が低レベル化していく傾向がある。

総合選抜は特定の高校を受験するのではなく、学区単位で一括してまず合格者を決め、その後に受験者の希望、成績、および居住地・交通事情等を考慮して各高校に配分するため、どこの高校に入学を許可されるかは発表されるまで分からない。総合選抜が行われている地域の場合、テレビニュースなどで見られる合格発表の掲示板を前に生徒が泣いている光景では、全員が喜びの涙で号泣しているとは限らず、その中には合格こそしたものの自身が希望しない高校への配分対象とされたため悔しさや悲しみからくる感情から泣いている生徒も少なからず含まれている[1]

さらに都市部やその近郊では、学力の高い生徒や進学意識の高い生徒が総合選抜を忌避して国立・私立の進学校、高等専門学校(高専)などに進学するケースが見られるようになる。同様にスポーツ・芸術などに秀でた生徒であっても総合選抜では優秀な指導者がいる高校・良質な練習環境を持つ高校に進学できるとは限らない。その結果、優秀な指導者や練習環境を求めて私立校に進学するケースが多くなる。逆に公立高校に進学したとしても地域に分散されてしまう上、優秀な生徒が優秀な指導者に出会えるとは限らない。このため、結局は競技活動・芸術活動などにおいても伸び悩みの傾向となり、伝統校と呼ばれていた学校であっても総合選抜校となった公立高校からのスポーツ・芸術の各種目の全国大会やコンクールへの出場実績は凋落傾向となる。

また、自宅から近い場所に学校があるにもかかわらず遠方の学校に合格することがあり、特に実施されている学区の面積が広大である場合は通学の負担が大きくなる。
各地の状況

総合選抜の開始年と廃止年都道府県名開始年廃止年(前年まで実施)備考
高知県1949年1963年無試験抽選
岡山県1950年1999年
山口県2003年
小学区制
長崎県2003年
京都府2013年
大分県1951年1995年
兵庫県1953年現在も実施進学連携校方式
広島県1956年1998年
島根県1961年2021年小学区制
宮崎県1963年2003年
北海道1964年1966年
東京都1967年1982年学校群制度[2]
山梨県1968年2007年
徳島県1972年2003年
愛知県1973年1989年学校群制度
岐阜県1974年1983年学校群制度
三重県1995年学校群制度
千葉県1975年1978年学校群制度
福井県1980年2004年学校群制度

高知県

当時、公選制だった高知県教育委員会に選出された日教組系の教育委員の高校全入制を目指すという方針により1949年(昭和24年)度入学生より高知県全域で高校生徒募集方法を無試験にするとともに高知市内で高知追手前高校高知小津高校高知丸の内高校の3校で抽選を実施。

1956年(昭和31年)、教育委員会が公選制から任命制に移行し、高校入試に定員制を導入することが決定されるものの校長裁量により全入状態が継続される。

1957年(昭和32年)、高校入試は行うことになったものの高校全入制、抽選は継続。同年より高知東高校が抽選に参加。

1961年(昭和36年)、入試に定員制を導入したことにより全入状態終了。

1963年(昭和38年)、抽選廃止[3]

岡山県
岡山学区(
岡山市(普通科の西大寺学区、倉敷学区、瀬戸学区を除く)、御津郡御津町・建部町・加茂川町の一部、都窪郡早島町のうち矢尾・無津、赤磐郡吉井町のうち広戸・石上・小鎌・西勢実(1980年(昭和55年)以降))


1950年(昭和25年)- 2校の間で総合選抜が開始。

岡山五校

岡山朝日高等学校

岡山操山高等学校

岡山大安寺高等学校(創設に伴い、1962年(昭和37年)から参加)

岡山芳泉高等学校(創設に伴い、1974年(昭和49年)から参加)

岡山一宮高等学校(創設に伴い、1980年(昭和55年)から参加)


1955年(昭和30年)- 岡山学区内の自由出願 (5%) を認めた。

1956年(昭和31年)- 学区外からの自由出願(5%を認める。出願は希望校)

1967年(昭和42年)- 学区外からの出願も総合選抜に組み込まれる。

1980年(昭和55年)- 岡山一宮高校の開校に伴いそれまで総社学区(小学区制)に含まれていた岡山市立高松中学校の地域が岡山学区に編入された。

1999年(平成11年)- この時の入試から総合選抜廃止。岡山学区・倉敷学区以外で実施されていた小学区制も廃止され全県6学区(岡山・東備・倉敷・西備・備北・美作)の中学区制に移行。

倉敷学区(倉敷市


1962年(昭和37年)- 2校の間で総合選抜が開始。

倉敷四校

倉敷青陵高等学校


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