網走郡
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日本 > 北海道 > オホーツク総合振興局 > 網走郡
北海道網走郡の位置(1.美幌町 2.津別町 3.大空町 黄:明治期 薄緑:旧・網尻郡)

網走郡(あばしりぐん)は、北海道北見国オホーツク総合振興局

人口28,252人、面積1,498.87km²、人口密度18.8人/km²。(2024年3月31日、住民基本台帳人口)

以下の3町を含む。

美幌町(びほろちょう)

津別町(つべつちょう)

大空町(おおぞらちょう)

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、網走市・大空町にあたる。
歴史
郡発足までの沿革

江戸時代の網走郡域は西蝦夷地に属し、当初は松前藩によって開かれたソウヤ場所に含まれた後、アバシリ場所が開かれていた。

江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え文化4年網走郡域は天領とされた。翌文化5年から文化7年にかけて白糠在勤の幕吏・大塚忽太郎の指揮で釧路国を起点に網走川沿いを下りニマンベツを経て新栗履(にくりばけ、今の網走市藻琴)に至る46里(180.7km)の網走越(国道240号の前身)が開削された。この道は、留萌など西蝦夷地の各場所に馬を配置する際などにも利用された。文化9年、漁場の鎮守とするため近江出身の藤野四郎兵衛により網走川の河口に弁財天を祀る小祠が建てられる。これは後に北見国一宮と称される網走神社の前身である。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩警固地となっていた。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年8月15日大宝律令国郡里制を踏襲して網走郡が置かれた。
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の網走郡の町村(2.網走町 3.藻琴村 4.能取村 5.美幌村 紫:網走市 青:合併を経ていない町村 23.大空町 24.津別町)

明治2年

8月15日1869年9月20日) - 北海道国郡里制が施行され、北見国および網走郡が設置される。開拓使が管轄。

8月29日(1869年10月4日) - 名古屋藩の領地となる(北海道の分領支配)。


明治3年6月19日1870年7月17日) - 再び開拓使の管轄となる。

明治5年

4月9日1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。

10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。

同年、アバシリ村、エチャニ村、ニクリバケ村、ノトロ村、モヨロ村、モコト村、ナヨロ村、トウフツ村が成立。


明治8年(1875年)- 各村名に漢字を当て、網走村、勇仁村、新栗履村、能取村、最寄村、藻琴村、娜寄村、濤沸村とする。

明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区


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