網尻郡
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旧北見国にあり現存する「網走郡」とは異なります。
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網尻郡(あばしりぐん)は、北海道釧路国)にあった
郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の網走郡美幌町津別町にあたる。
歴史
郡発足までの沿革

江戸時代の網尻郡域は、松前藩によって開かれたクスリ場所に含まれた。

江戸時代後期、網尻郡域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年網尻郡域は天領とされた。文化5年から文化7年にかけて白糠在勤の幕吏・大塚忽太郎の指揮で白糠郡庶路から阿寒郡を通り、網走川沿いを下流に向かいニマンベツを通って、北見国網走郡の新栗履(にくりばけ、今の網走市藻琴)に至る46里(180.7km)の道が開削された。この道は網走越(国道240号の前身)と呼ばれ、留萌など西蝦夷地の各場所に馬を配置する際などにも利用された。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して釧路国に網尻郡が置かれた。
郡発足以降の沿革

明治2年

8月15日1869年9月20日) - 北海道国郡里制が施行され、釧路国および網尻郡が設置される。開拓使が管轄。

8月28日(1869年10月3日) - 広島藩の領地となる(北海道の分領支配)。


明治3年10月 - 再び開拓使の管轄となる。

明治5年

4月9日1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。

10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。

同年、ビホロ村、ケネタンペ村、フレメム村、カックミ村、タツコフ村、ポンキキン村が成立。


明治8年(1875年)- 各村名に漢字を当て、美幌村、杵端辺村、古梅村、活汲村、達媚村、翻木禽村とする。

明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区

第24大区

7小区 : 美幌村、杵端辺村、古梅村、活汲村、達媚村、翻木禽村



明治12年(1879年7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての網尻郡が発足。

明治13年(1880年)7月 - 厚岸郡外六郡役所(厚岸釧路白糠阿寒足寄川上網尻郡役所)の管轄となる。

明治14年(1881年7月8日 - 北見国網走郡に編入。同日網尻郡廃止。

参考文献

角川日本地名大辞典 1 北海道

関連項目

消滅した郡の一覧


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