維新の十傑(いしんのじっけつ)は、明治維新に尽力した志士のうち、山脇之人
『維新元勲十傑論』(1884年3月刊)において挙げられた特に優れた10人を指す名数。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の特に枢要な「維新の三傑」の他、薩摩藩の小松帯刀(小松清廉)、長州藩の大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、肥前藩の江藤新平、肥後藩の横井小楠、公家の岩倉具視から成る。10人ともに幕末から明治まで生き抜いたが、明治に入り3人が病死、7人が外因死(暗殺、刑死、敗死)により命を落としている。 小御所会議を経て、王政復古の大号令を達成した新政府発足時の中心人物であり、各藩を代表する人物が挙げられている。藩閥の中で、十傑から洩れているのは土佐藩士だが、当時はまだ板垣退助と後藤象二郎の両名が存命だったことや、著者の山脇が自由民権派に嫌悪感を抱いていたため除外された可能性が指摘されている[1]。賞典禄は板垣退助と後藤象二郎の千石が最高位である。特に、大村益次郎については一時は「維新の三傑」に割って入ろうかという評価で、横井小楠も維新樹立を打ち立てた思想家として高い評価を得ている[2]。明治政府内では大久保利通と江藤新平は政敵として知られ、佐賀の乱を鎮圧した大久保が江藤の首を梟首したことでも垣間見える。なお、この10人のうち岩倉具視を除く9人は、明治11年の紀尾井坂の変までに4人が暗殺され、2人が病死、2人が刑死、1人が戦死している。そして明治16年には残った岩倉具視が咽頭癌により死去する。十傑が去った後に明治政府を主導していったのは、伊藤博文や山縣有朋、井上馨といった長州藩の元老である。また、幕末の上士出身で明治後半まで活躍した井上馨、後藤象二郎ら総理大臣には就けなかった者が多いなか、大隈重信、板垣退助は数少ない例外であった。幕臣であっても明治新政府に協力したものとして、大久保一翁や山岡鉄舟、勝海舟等があり、他にも箱館戦争を戦ったのちに政府に協力した榎本武揚、武田斐三郎、大鳥圭介らがいる。 なお、金澤正造
概要
また、伊藤痴遊の著書『実録維新十傑』(1934年)では、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、三条実美、勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬の10名が挙げられている。 小松、岩倉、木戸を除く7人が外因死(暗殺、刑死、敗死)により命を落としている。
十傑
西郷隆盛
(薩摩藩)
大久保利通
(薩摩藩)
小松帯刀
(薩摩藩)
大村益次郎
(長州藩)
木戸孝允
(長州藩)
前原一誠
(長州藩)
広沢真臣
(長州藩)
江藤新平
(肥前藩)
横井小楠
(肥後藩)
岩倉具視
(公家)
十傑の最期