維新の三傑(いしんのさんけつ)は、日本において倒幕・維新に尽力した、志士の西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の3人を指す。 氏名出生年死亡年 3人の死後間もない1878年11月には既に、大久保・木戸・西郷の伝記をまとめた岩村吉太郎 1884年3月刊、山脇之人
三傑
さいこう/西郷隆盛
(薩摩藩)1828年1877年
おおくほ/大久保利通
(薩摩藩)1830年1878年
きと/木戸孝允
(長州藩)1833年1877年
木戸孝允の命日は1877年5月26日で、京都で病没。
西郷隆盛の命日は1877年9月24日で、鹿児島で戦没。
大久保利通の命日は1878年5月14日で、東京の紀尾井坂の変にて倒れた。明治10年(1877年)前後に時期を同じくして死去している。
概要
一方、獲鹿野史『薩長幕三傑伝』(1900年12月、上田屋書店。1909年2月、盛林堂より『明治三傑伝』として再刊)が三傑を「西郷・大村益次郎・勝海舟」としたような異説もあった[注釈 1]。また前述の『維新元勲十傑論』は、「十傑」として三傑に続けて、江藤新平・横井小楠・大村益次郎・小松帯刀・前原一誠・広沢真臣・岩倉具視を挙げている。
この三傑の遺族のうち、木戸の養子・正二郎と大久保の長男・利和は、大名・公家以外の出身者(すなわち幕末まで無位無官であった家)としてはただ二家のみ、華族令発布当初より侯爵(他に武家で列せられたのは15万石以上の旧大名家のみ)に列せられた。1879年には維新の功を賞し、先に没した木戸・大久保の遺族とともに、維新の十傑の一人である広沢真臣の広沢家は華族に列せられた。当時の華族は旧藩主と公家に限定されており、華族令制定以前にこの3例を除いて士族から華族に昇ることはなかった。1884年、嫡子の金次郎に伯爵が授けられた。早く斃れた広沢の名は今日では三傑に比べて影が薄いものの、当時は死してなお木戸に準ずる畏敬を受けていたことが伺われる。
ちなみに、発布当事(1884年)に残る功臣の筆頭格として政府の権勢を握っていた伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆らはいずれも伯爵であり(伊藤と山縣は最終的には公爵)、まだ20代前半で何の実績もない木戸正二郎と大久保利和に対し、あえて自分達より格上の侯爵で遇したことになる。
西郷は西南戦争により逆賊扱いとされたが、明治22年(1889年)2月11日に、褫奪されていた正三位を追贈されて名誉回復が行われた。1902年、西郷の遺児寅太郎が隆盛の維新の功で侯爵に叙され、華族に列した。
徳富蘇峰が生涯をかけた大著『近世日本国民史』最終巻に、三者を論じた『明治三傑』(講談社学術文庫、1981年、元版は第100巻『近世日本国民史 明治時代』時事通信社)がある。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ これを取り上げた宮武外骨は双方に、「依怙の選定」「偏見の一つ」と辛辣な評を与えている(宮武外骨『明治奇聞』(河出文庫、1997年)、101?2頁)
出典^ 『維新元勲十傑論』、16頁
^ 『維新元勲三傑詩文集』「凡例」1頁
関連項目
元勲
維新の十傑
幕末の四賢侯
三英傑
明治維新