続日本紀
[Wikipedia|▼Menu]

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らによって延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体漢文表記である。略称は続紀(しょっき)[1]
編纂

編纂は、前半部と後半部で異なる事情を持つ。

前半ははじめ、文武天皇元年(697年)から天平宝字元年(757年)、孝謙天皇の治世までを扱う30巻の構想として作られた。笹山晴生淳仁天皇の時代の藤原仲麻呂(恵美押勝)政権下で編纂され、恵美押勝の乱の影響で不十分な草案に終わったと推定している。光仁天皇が、この草案の修正を石川名足淡海三船当麻永嗣に命じたが、彼らは天平宝字元年紀を紛失した上、未完成に終わった(この年の前後には政争絡みの事件も多かったため、執筆者間で意見をまとめることが出来ずに紛失ということにしたとする説もある)。桓武天皇の命により編纂を菅野真道、秋篠安人中科巨都雄が引き継ぎ、全20巻とした。

後半は当初、天平宝字2年(758年)からおそらく宝亀8年(777年)、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂された。石川名足、上毛野大川が詔によって編集した20巻を、藤原継縄、菅野真道、秋篠安人が14巻に縮め、延暦13年(794年)にいったん完成した。菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄は、さらに6巻、すなわち桓武天皇の治世のうち延暦10年(791年)までを加え、全20巻とした。

以上あわせて40巻の編纂が成ったのは、延暦16年(797年)であった。
内容

「日本」という国家が形成されていく過程を描いた『日本書紀』とその国家が形成された後の歩みを描いた『続日本紀』以後の勅撰国史では、その内容に違いが生じてくる。また、律令国家が整えられたことにより、内記外記図書寮などに不十分ながらも記録や公文書が蒐集される仕組が形成されてきたことが記録の充実をもたらすことになる。中国の国史編纂の基礎となった起居注[注釈 1]に相当するものは日本では「内記日記」といい、これを作成する仕組みも組織された。

全般に記述が簡潔で、事件の要点のみを記して詳細に及ばない。簡潔過ぎて養老律令のような重要事件が脱落した例が見られる。一部の人物の死亡記事に簡単な略伝(薨伝(こうでん))を付し、これは後続の史書に踏襲された。

記事中の日付に関しては干支を持って記されているが、稀に『類聚三代格』などに採録されて現存している公文書に記載されている日付の数字と食い違っている事例がある。これは干支に換算する際の計算もしくは記載ミスであるとみられている。また、天皇の即位記事に関しては、天皇の代替わりが巻首に来ているものと、巻の途中に来てしまっているものがあって不統一な体裁となっているが、これは度重なる校訂によって巻次構成が変更された影響によるとみられる。

政治的配慮は、桓武天皇の治世の記述において顕著である。天皇の心痛となった早良親王廃太子の記事は、事件の発端となった藤原種継暗殺事件とともに、いったん記載されたものが後に削除された。削除部は平城天皇の代に復活したが、嵯峨天皇によって再び消されて今に至る。消された部分は『日本紀略』に採録されている。この背景には早良親王が怨霊になったとする説と関係があると言われている[注釈 2]

また、藤原広嗣の乱における謀反人・藤原広嗣に対する好意的な記事や宇佐八幡宮神託事件及び道鏡に関する記述に政治的意図が含まれているという説もある。これとは別に、編纂過程で30巻分あった内容を20巻分に圧縮しているため、重要な内容でも削除された記述があるのではないか、とする指摘もある[2]。ただし、『日本書紀』と比べれば、続紀の信頼性はずっと高いと考えられている。“天平文化”をとりまく諸側面を解明し、本格的な実録として最初に整備された史書である。

『続日本紀』には、『官曹事類』と『外官事類』が付属した。前者は本文に掲載しなかった文書類を原文そのままに項目別に配列したもの、後者は内容不明でおそらく前者に似たものであろう。どちらも失われた。
『続日本紀』目次 (主要事項)

天之眞宋豊祖父天皇(あめのまむねとよおおじのすめらみこと)(第四十二代)
文武天皇

卷第一 文武紀一 丁酉年八月より庚子年十二月まで

卷第二 文武紀二 大宝元年正月より大宝二年十二月まで

卷第三 文武紀三 大宝三年正月より慶雲四年六月まで

持統天皇譲位。軽皇子、文武天皇即位。

役小角を伊豆島に流す。 

藤原不比等律令を選定。

山上憶良遣唐使に。大宝律令完成。この年、聖武天皇藤原光明子誕生。

持統上皇崩御



日本根子天津御代豊國成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)(第四十三代)元明天皇

卷第四 元明紀一 慶雲四年七月より和銅二年十二月まで

卷第五 元明紀二 和銅三年正月より和銅五年十二月まで

卷第六 元明紀三 和銅六年正月より霊亀元年八月まで

文武天皇崩。

武蔵国和銅を献ず。和銅と改元。和同開珎発行。

陸奥越後の蝦夷。

平城京遷都。山階寺を平城に移し、興福寺と改称。

蓄銭叙位法を定める。

丹後大隅美作三国を置く。国、名に好字を選ばせる。『風土記』の編纂を命ずる。

首皇子(後の聖武天皇)立太子



日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)(第四十四代)元正天皇

卷第七 元正紀一 霊亀元年九月より養老元年十二月まで

卷第八 元正紀二 養老二年正月より養老五年十二月まで

卷第九 元正紀三 聖武紀一 養老六年正月より神亀三年十二月まで

元明天皇譲位。氷高内親王(後の元正天皇)即位。

この年、光明子が皇太子妃になる。駿河など七国の高麗人千七百九十九人を武蔵国に移し、高麗郡を置く。

行基ら僧尼の活動を非難する詔がでる。この年、不比等ら養老律令を撰修した。

能登安房石城石背四か国を置く。

大伴旅人大将軍として隼人を討つことを命ぜられる。『日本書紀』完成。藤原不比等死去。

元明上皇崩。

三世一身法施行。太安万侶死去。




天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)(第四十五代)聖武天皇

卷第十 聖武紀二 神亀四年正月より天平二年十二月まで

卷十一 聖武紀三 天平三年正月より天平六年十二月まで

大地震(畿内七道地震)発生。聖武天皇が(地震の発生は)不徳の致すところとする詔を記載[3]


卷十二 聖武紀四 天平七年正月より天平九年十二月まで

卷十三 聖武紀五 天平十年正月より天平十二年十二月まで

卷十四 聖武紀六 天平十三年正月より天平十四年十二月まで

卷十五 聖武紀七 天平十五年正月より天平十六年十二月まで

卷十六 聖武紀八 天平十七年正月より天平十八年十二月まで

美濃国で大地震が発生。櫓や館、正倉、仏寺堂舎や百姓家がみな倒壊。


卷十七 聖武紀九 孝謙紀一 天平十九年正月より天平勝宝元年十二月まで

元正天皇譲位。首皇子聖武天皇即位。蝦夷反乱し、藤原宇合討つ。多賀城なる。

光明子基王を生む。

基王死去。

長屋王の変。長屋王自殺。光明子、光明皇后となる。

大伴旅人死去。

橘三千代(光明の母)死去。

吉備真備ら帰国。舎人親王(『日本書紀』編纂の主催者)死去。葛城王を橘諸兄と改名。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef