絹と明察
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絹と明察
Silk and Insight
作者
三島由紀夫
日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌掲載
初出『群像1964年1月号-10月号
刊行講談社 1964年10月15日
受賞1964年度・第6回毎日芸術賞文学部門賞
ウィキポータル 文学
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『絹と明察』(きぬとめいさつ)は、三島由紀夫長編小説。古い日本的家族意識の家父長経営で業績を伸ばす紡績会社社長が、「子」である従業員たちから労働争議を起こされ滅びてゆく物語。「日本」および「日本人」「父親」というテーマを背景に、近代主義的な輸入思想の〈明察〉の男と、日本主義の〈〉の男との二重構造の対比や交錯が描かれている[1][2][3]近江絹糸の労働争議を題材に創作された作品で、昭和39年度・第6回毎日芸術賞の文学部門賞を受賞した[4][5]

1964年(昭和39年)、文芸雑誌『群像』1月号から10月号に連載され、同年10月15日に講談社より単行本刊行された[6][7]。文庫版は新潮文庫で刊行されている[7]
目次

1 作品背景・主題

2 あらすじ

3 文壇の反響

4 作品評価・研究

5 おもな刊行本

5.1 全集収録


6 脚注

7 参考文献

8 関連項目

作品背景・主題

三島由紀夫は『絹と明察』の執筆動機について以下のように述べつつ、「ぼくにとつて、最近五、六年の総決算をなす作品」と位置づけている[1]。書きたかつたのは、日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。二十代には、当然のことだが、父親といふものには否定的でした。「金閣寺」まではさうでしたね。しかし結婚してからは、肯定的に扱はずにはゐられなくなつた。この数年の作品は、すべて父親といふテーマ、つまり男性権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです。「喜びの琴」も「」も、「午後の曳航」もさうだつた。 ? 三島由紀夫「著者と一時間(『絹と明察』)」[1]

そしてそれを追求するうちに、「企業の中の父親、家父長的な経営者」にぶつかったとし、「批判者」が「父親に対する息子」だけでは足りないと考え、〈岡野〉という「人間の善意の底の」をよく知り、ドイツ哲学を学び「破壊哲学をつくつたつもりの男」、「日本の土壌には根を下してゐない知識人の輸入思想の代表」を設定したとし、以下のように説明している[1]。岡野は駒沢の中に破壊すべきものを発見する。そして駒沢のによつて決定的に勝つわけですが、ある意味では負けるのです。“”(日本的なもの)の代表である駒沢が最後に“明察”の中で死ぬのに、岡野は逆にじめじめした絹的なものにひかれ、ここにドンデン返しが起こるわけです。 ? 三島由紀夫「著者と一時間(『絹と明察』)」[1]

『絹と明察』の題材は、1954年(昭和29年)6月に起きた「近江絹糸の労働争議」から取ったもので、三島は1963年(昭和38年)8月30日から9月6日まで、滋賀県彦根市近江八景を取材してから、10月26日に起稿し、翌年1964年(昭和39年)8月13日に脱稿している[4][5]
あらすじ

55歳の駒沢善次郎は近江の駒沢紡績の社長であった。人情と熱血のかたまりのような駒沢は日本的家族意識を掲げながら、古く泥臭い会社経営によって業績を伸ばし、他社のいわゆる近代的な大手紡績会社に迫る急成長を遂げていた。駒沢社長は工員たちの労働条件だけでなく、彼らの郵便物もチェックするなど私生活にも土足で介入して、同族的心情にどっぷり浸かった徹底的な管理体質で労働強化をもたらしていた。駒沢の意識の中には公明正大な善意しかなく、人の良さと包容力とが自然な形でワンマン経営を形成し、自分が工員たちの父親のように感じていた。

駒沢紡績に凌駕されつつある近代的アメリカ流の経営に専念してきた他社の経営者たちは、その駒沢の破天荒な楽天性を切り崩そうと、業界の内情に通じながら浪人し、政界財界の闇に通じている岡野を使って、駒沢紡績に労働争議を起させようとする。岡野はハイデッカー思想に傾倒し、ヘルダーリンの詩を愛唱する人物だった。彼は知り合いの40歳の芸者・菊乃を駒沢に近づけ、寮母となった菊乃から工場の様子を聞き出し、糸口を探った。

やがて岡野は、工員同士で恋人となっていた若者・大槻と弘子と知り合い、徐々に大槻を巧みに誘導し、若い工員たちに労働争議を起させることに成功する。銀行新聞マスコミにも岡野は圧力を加え、追い風を受けた工員たちは勝利を収め、駒沢紡績に漲っていた駒沢善次郎的な体質は、「封建制」、「偽善」として葬られることとなった。そして会社を追われると共に、駒沢自身も脳血栓で倒れて入院する。

工員たちの労働争議に誰よりも衝撃を受けた駒沢だったが、彼は死の間際も家族的心情から、仇をした者たちをもゆるし、金戒光明寺の暁鐘を聴きながら、「四海みな我子やさかいに」という心境にたどり着く。そして駒沢の死の後、岡野は駒沢の椅子に座れる立場となるが、しだいに軽蔑していたはずの駒沢の人間性に惹かれていた自分に気づき、自分の周囲の風景にも偏在する「駒沢の死」を感じ脅かされる。岡野は自分の得る利得はただ永久に退屈な利得につらなる予感がし、「自分が征服したものに忽ち擦り抜けられる無気味な円滑さしかない」と思った。
文壇の反響

『絹と明察』に対する同時代の反響は、概ね好意的なもので占められ、主人公・駒沢の人物造型への共感や讃辞が多く見られる。第6回毎日芸術賞の文学部門賞も受賞し、総じて高い評価となっている[5]

磯田光一は、「極度の無私と無欲」に貫かれている駒沢の家父長倫理の「壮大な世界観によって再構成された現実」(夢想)が、「現実」によって崩壊し、挫折した駒沢の「諦念と赦しの心に調和した」最終章の「京都の静謐」が美しく印象的だとし[8]、「古都に生きている日本の自然」、「東洋的なと諦念」が駒沢を包みながらも、それは己のかけがえのない〈宿命〉に対する「無限の愛惜であり、慟哭」だと看取している[8]。そして、「明敏な岡野」と「愚かな駒沢」のどちらが果たして「人生にたいする本当の〈明察〉を持っていたか」と磯田は提起しつつ、人生には「見ようとすることによってかえって物を見失い、素直に盲になりきることによって本当に物を見ることができるという逆説もまた成立している」とし、そういった「人間性の背理」に目をそむけては、「人生や芸術」について語れないとし、以下のように考察している[8]。駒沢よりも賢明な岡野でさえも、駒沢の持っている不思議な魅力の前には抗することができないのである。そして、この最も古風な、最も愚かな倫理への献身を、自ら選んだ「運命」として生きぬいた駒沢の上にこそ、読者の共感は否応なしに集まってしまうのである。これはどうしようもない事実なのだ。実生活の上では、私たちは賢明に世に処さなければ身が持てぬ。しかし芸術こそは、そういう賢明さをこえた、もう一つの「英知」によって支えられたものなのではなかろうか。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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