絶滅収容所(ぜつめつしゅうようじょ、英: Extermination camp、独: Vernichtungslager)とは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ルブリン強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、以上6つの強制収容所を指す言葉である。絶滅収容所を正式名称とした施設は存在せず、また、当時のドイツ政府の公式文書に絶滅収容所という言葉は存在しない。
ホロコーストを目的として、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に設立した強制収容所の一種である。絶滅収容所は大戦中に絶滅政策の総仕上げとして建てられた[1]。犠牲者の遺体は、通常は焼却処分ないし集団墓地に埋められて処理された。こうした収容所によってナチスが絶滅させようとしたのは、主にヨーロッパのユダヤ人とロマ(当時はジプシーと呼ばれた)であった。しかし、ソ連軍の捕虜や同性愛者、ときにはポーランド人も含まれていた。 絶滅収容所(独: Vernichtungslager)と死の収容所(Todeslager)は概して同義であり、特にジェノサイドを主な目的とする、あるいは主な目的とした収容所を指すものである。 一般に「絶滅収容所」とは、そこに送り込まれた囚人を殺すために設置された強制収容所のことである。これらの収容所は犯罪行為に対して刑罰を与えるための場所としてではなく、むしろ絶滅を促進するためのものである[2]。「絶滅収容所」という語は、政治的抗議運動を行っている人々によって、彼らにとっては唾棄すべき監獄の忌まわしさを誇張して表現するためにも用いられている。 ナチス・ドイツの絶滅収容所は、同じナチスの収容所でもダッハウ強制収容所やベルゲン・ベルゼン強制収容所のような強制収容所とは区別されるもので、後者は様々な「国家の敵」(ナチスが好ましくないとレッテルを貼った者)を投獄して強制労働を行わせる場所であり、絶滅そのものを主な目的とするものではない。ホロコーストの初期の段階では、ユダヤ人も主にこうした収容所に送られていたが、1942年以降はそのほとんどが絶滅収容所に送られた。 絶滅収容所は強制労働収容所(独: Arbeitslager)とも区別される。強制労働収容所とは、捕虜を含めた様々な囚人に労働を行わせる目的で、ドイツが占領したあらゆる国に作られた収容所である。多くのユダヤ人がこうした収容所で死ぬまで働かされたが、やがてユダヤ人労働力は、ドイツの戦力として有用であるかないかにかかわらず、絶滅収容所へ送られることとなった。ほとんどのナチスの収容所(ソ連以外の兵士のための捕虜収容所と一部の労働収容所を除く)において、処刑や飢餓、病気、疲労のために死亡率は非常に高いのが常であった。しかし、絶滅収容所だけは絶滅を目的としていたということである。 1942年9月前半には既に、あるSSの医師が、毒ガスによる殺戮を目撃し、「彼らはいたずらにアウシュヴィッツを絶滅収容所(das Lager der Vernichtung)と呼んでいる訳ではないのだ!」と日記に書いている[3]とされるが、この医師が誰なのかは不明である。アドルフ・アイヒマンの副官の一人ディーター・ヴィスリツェニー (Dieter Wisliceny ホロコーストに関する最新の報告書のほとんどにおいて、6か所の強制収容所が絶滅収容所に認定されている。それらは全てドイツ占領下のポーランドにあった。古い報告書では異なる強制収容所が絶滅収容所であったとされていた。 このうちアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とヘウムノ強制収容所は、ドイツが併合したポーランド西部にあり、他の4つはドイツ占領下のポーランド総督府に置かれた。 ロコト共和国
用語
収容所
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
ヘウムノ強制収容所
ベウゼツ強制収容所
ルブリン強制収容所
ソビボル強制収容所
トレブリンカ強制収容所
「ユダヤ人問題の最終的解決」 (Endlosung der Judenfrage) という婉曲的な表現が、ユダヤ人の組織的な殺戮を表現する言葉としてナチスによって用いられた。これを実施するという決定は1942年1月のヴァンゼー会議においてなされ、アドルフ・アイヒマンの指揮下に執行された。ラインハルト作戦(ポーランド系ユダヤ人絶滅作戦)中にトレブリンカ強制収容所、ベウゼツ強制収容所、ソビボル強制収容所が建造された[要出典]。
アウシュヴィッツ第2強制収容所ビルケナウはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の一部であり、またルブリン強制収容所にも労働収容所があったのに対し、ラインハルト作戦で建てられた強制収容所とヘウムノ強制収容所(マイネダク)は「純然たる」絶滅収容所であり、言い換えると、大勢の人々(主にユダヤ人)を到着してすぐに殺戮するためだけに、単独で特別に作られたものである。これらの収容所に到着して即座に殺されなかった囚人は、絶滅の過程に直接関係する奴隷労働(例えばガス室から死体を運び出す作業など)に従事させられる人々のみであった。
こうした収容所は、最小限度の住居と設備しか必要とされず、一辺が数百メートルという小ささであった。到着した囚人に対しては、さらに東へ行くまでの中継地点または労働収容所に着いただけだという説明しか与えられなかった[要出典]。
犠牲者数の推定絶滅収容所への主な輸送路
近年の推定によると、ホロコーストの犠牲者数はユダヤ人が510万人(うち子供が100-200万人)、ロマや共産主義者、社会主義者、同性愛者が合わせて50万人である。ホロコーストにより全ユダヤ人の3分の1、ヨーロッパのユダヤ人に限れば実に3分の2が殺戮された。ポーランド系ユダヤ人に至っては、その90%が殺害されている。各収容所で殺された人数は、おおむね次の通りに推定されている。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所:約1,100,000[5]
トレブリンカ強制収容所:少なくとも700,000[6]
ベウゼツ強制収容所:約434,500[7]
ソビボル強制収容所:約167,000[8]
ヘウムノ強制収容所:約152,000[9]
ルブリン強制収容所(マイダネク): 78,000[10]
Maly Trostenets:少なくとも65,000[11]
合計は250万人を超え、そのうち80%以上がユダヤ人である。したがって、これらの絶滅収容所で殺されたユダヤ人の数は、ポーランド国内におけるほぼすべてのユダヤ人を含めて、ナチスのホロコーストで殺されたユダヤ人全体の約半数を占める。 ジャン・クロード・プレサック(Jean-Claude Pressac
ジャン・クロード・プレサックによる推定数
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所:63万?71万人
トレブリンカ強制収容所:20万?25万人
ベウゼツ強制収容所:10万?15万人
ソビボル強制収容所:3万?3万5千人
ヘウムノ強制収容所:8万?8万5千人
ルブリン強制収容所(マイダネク):10万人以下
このJ‐C プレサックによる推定は2000年当時のものであり、特に当時のマイダネク収容所の死亡者は約36万人と主張されていた。