この項目では、日本の職能について説明しています。図解を意味する絵解については「イラストレーション」をご覧ください。
『籠耳』より、絵解きを行う熊野比丘尼
絵解き・絵解(えとき)は、宗教的背景を持ったストーリーのある絵画である「説話画
」の内容や思想を当意即妙に説き語る行為、およびそれを行う日本の職能、芸能である。元々寺院や神社の教化・宣伝等の目的でなされてきたが、鎌倉時代以降からは急速に大衆化・芸能化し、娯楽的な要素を含むものも増えた[1]。
絵画と語りが一体化した絵解きは、長い年月、文字を読めない人々にとって重要なものであった[2]。紙芝居も絵解きから派生しており、アニメーションや漫画の背景にあるのも絵解き文化である[3]。 絵解きの起源は古代インドの「布絵語り」にある。古くからインドではパタと呼ばれる布絵で絵解きを行う伝統があった[4]。 仏教と絵解きが結びついたのは、ストゥーパ(仏塔)の浮彫彫刻であった。ストゥーパを飾る説話図の解説に当たった仏僧たちは古代の「絵解き法師」だったと言える[5]。その後、絵解き文化は中央アジア・中国を経て日本に伝わり、独自の展開を遂げることになる[6]。 「絵解き」が文献に初めて登場するのは931年、重明親王が書いた日記『吏部王記』で、貞観寺にて『釈迦八相絵』の絵解きを受けたという記述がある[6]。
歴史
古代
中世熊野比丘尼が絵解きをしながら配った熊野牛王符(熊野本宮大社)。
鎌倉時代になると、絵解きは急速に通俗化・芸能化し、身分の低い僧も寺院・神社の内外で多くの人々を相手に絵解きを行うようになる[7]。
絵解きの種類も多様となり、前代から続く「釈迦八相図」「聖徳太子絵伝」に加え、浄土宗では「観経(当麻)曼荼羅」、真宗では「本願寺聖人親鸞伝絵」「蓮如上人絵伝」、その他、宗派を超えて好まれた「善光寺如来絵伝」「地獄絵」「十王図」などが隆盛を極めた[7]。
寺社ではなく、貴族の邸宅や町中で絵解きを生業とする「俗人絵解き」も登場し、琵琶を弾きながら非業の死を遂げた英雄譚などを説いた[7]。
また鎌倉時代からは善光寺聖と呼ばれる勧進聖が全国各地に出向いて、絵解きをおこなった。彼らは背負ってきた厨子の扉を開いて善光寺如来の分身仏の開帳をし、さらには善光寺縁起絵伝を広げて絵解きをし、火災による善光寺の修復のための費用を集めた。これにより全国に善光寺信仰が広まった[8]。
室町時代後期からは熊野三所権現勧進のために諸国を歩いた「熊野比丘尼」と称される女性宗教家・芸能者が登場[9]。「勧進比丘尼」「絵解比丘尼」とも呼ばれた。小脇に抱えた大型の文箱から取り出した絵巻物による絵解きをしながら、熊野牛王符と酢貝(アワビの酢漬け)を配り、歌念仏や『浄土和讃』、世間で流行した俚謡(民謡)や小歌を歌いながら、観心を行った[10]。中でも得意としたのが地獄・極楽を描いた「熊野観心十界曼荼羅」である[11]。
近世・近代江戸の町で絵解きを行う絵解き法師。(『四時交加』より)
江戸時代初期まで活躍した熊野比丘尼だが、十七世紀半ばになると彼女らの多数は「歌比丘尼」あるいは「浮世比丘尼」と称する、歌と売色を生業とする身となっていく[11]。