統帥権
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この項目では、日本の旧憲法用語について説明しています。軍隊の最高指揮権については「最高指揮官」をご覧ください。

統帥権(とうすいけん)とは、大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権[1])のことをいう。
概説

大日本帝国憲法第11条(明治憲法)で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」として定められていた権能で天皇大権の一つとされた[2]

明治政府は憲法制定過程で軍政大権と軍令大権をどこまで具体化するか腐心していたとされる[2]。「軍政」は軍隊の構成や給与など行政にあたる軍隊の維持管理、「軍令」は特に戦争における作戦の指導など軍隊の運用を指す[3]

明治憲法制定前の1869年(明治2年)には兵部省が設置されたが、軍政も軍令もすべて兵部省の陸海軍卿の職掌であった[2]。憲法制定前には文官と武官が未分化で、統帥権は武官でなければ行使できないという解釈は無かった[2]。その一例として、1874年(明治7年)の佐賀の乱で大久保利通は、明治天皇から軍令権や軍政権の委任も受けていた[2]

一方、明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣輔弼することとなっていたが、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補翼することとなっていった[注釈 1][注釈 2]

この軍令と国務大臣が輔弼するところの軍政の範囲についての争い[注釈 3]が原因でのちに統帥権干犯問題が発生した。

統帥権独立の考えが生まれた源流としては、当時の指導者(元勲藩閥)が、政治家が統帥権をも握ることにより幕府政治が再興される可能性や、政党政治で軍が党利党略に利用される可能性をおそれたこと[4]元勲藩閥が政治・軍事両面を掌握して軍令と軍政の統合的運用を可能にしていたことから、後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかったこと、南北朝時代楠木正成軍事に無知な公家によって作戦を退けられて湊川の戦いで戦死し、南朝の衰退につながった逸話が広く知られていたこと[5]などがあげられる。
明治期?大正期
日清戦争

日清戦争の指導は、政治主導であった[6]明治天皇の特旨により、本来ならメンバーでない伊藤博文総理が大本営に列席し、軍事作戦に目を出すことさえあった。政治が軍事をリードできた要因として、第一に統帥権独立の制度を作った当事者達であったため、同制度の目的と限界を知っており、実情に合わないケースで柔軟に対処できたことが挙げられる。第二の要因として、指導者層の性格が挙げられる。指導者の多くは、政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育った武士出身であり、明治維新後それぞれの個性と偶然などにより、政治と軍事に進路が分かれた。したがって、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識をもっており、また両者は国際環境の状況認識がほぼ一致するとともに、政治の優位を自明としていた(陸軍士官学校海軍兵学校卒の専門職意識をもつエリート軍人が軍事指導者にまで上りつめていない時代)。関連して藩閥の存在も挙げられ、軍事に対する「政治の優位」イコール「藩閥の優位」でもあった。

なお、そうした要因は、日露戦争後次第に失われ、軍が自立化することとなる。たとえば、永田鉄山など「藩閥」排除を掲げて結束した陸軍の青年士官たち(日露戦争で最前線に立たず、結果的に温存された世代)が1930年代に入り、陸軍省・参謀本部の中堅幕僚として影響力を強め、さらに一部が太平洋戦争を指導する立場についた。
日露戦争

戦時大本営条例では列席資格は陸海軍将校で文官は認められていなかった[2]。日清戦争の大本営会議には伊藤博文が明治天皇に願い出て特別に参加したが、日露戦争の大本営会議に文官が参加することはなかった[2]。その要因には、戦争指導において陸海軍の作戦立案や実施が専門化・高度化したことや陸海軍統帥の二元化が挙げられている[2]。ただし、明治期には大本営のみで戦争指導が行われたことはほとんどなく、軍人を含む元老を中心とする御前会議で計画の検討や決定が行われた[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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