統一マレー国民組織
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統一マレー国民組織
Pertubuhan Kebangsaan Melayu Bersatu
United Malays National Organisation
統一マレー国民組織 党旗 選挙のサイン
総裁アフマド・ザヒド・ハミディ
マレー語: Ahmad Zahid Hamidi)
スローガンUnited, Loyal, In Service
Bersatu, Bersetia, Berkhidmat
党歌Bersatu, Bersetia, Berkhidmat
創立1946年5月11日 (1946-05-11)
本部所在地 マレーシア
党員・党友数約400万人(2018年7月)
政治的思想社会保守主義
政治的立場右翼
公式カラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  赤色
  白い色
代議院37 / 222
元老院19 / 70
シンボル

党旗

公式サイト
UMNO MALAYSIA OFFICIAL WEBSITE
UMNO MALAYSIA OFFICIAL NEWS WEBSITE
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統一マレー国民組織(とういつマレーこくみんそしき、マレー語: Pertubuhan Kebangsaan Melayu Bersatu, 英語: United Malays National Organisation, 略称:UMNO)は、マレーシア政党で、国民戦線(マレー語: Barisan Nasional)の創立メンバーである。マレー系住民の政党。この項目では、以下略称で通す。
歴史
独立前夜1957年、独立を宣言するラーマン

1945年、現在のマレーシアと呼ばれている地域(マラヤ)は、第二次世界大戦終了後、再び、イギリス植民地マラヤ連合)となった。しかし、マラヤ連合は、数多くの反対に直面する。1946年5月11日、ジョホールバルにて、ダトー・オンを党首に迎え、UMNOが発足する。UMNOは、強硬にマラヤ連合に反対するが、この段階では政治的実権を掌握していたわけではなかった。1948年、マラヤ連合がマラヤ連邦へ移行すると、UMNOは、政権奪取に焦点を移すこととなった。

1951年、これまで、UMNOを指導してきたダトー・オンがマラヤ独立党を結成すると、ラーマンが、UMNOの党首となった(詳細は、トゥンク・アブドゥル・ラーマンの項を参照すること)。同年、ペナンジョージタウンでの議会選挙において、急進勢力?中国共産革命の影響が多分にある--が勝利を収めると急進勢力の勢力拡大を危惧したマレーシア華人協会(以下MCAと省略)と提携を結び、クアラルンプールでの議会選挙でもジョージタウンの選挙のような事態を回避しようとした。結果として、12議席中9議席をUMNO-MCAアライアンスが獲得し、マラヤ独立党を解体に追い込んだ。また、各地で実施された議会選挙でもこのアライアンスは成功を収めた。

1954年に実施された州単位の選挙では、国家規模では、アライアンスは、268議席中226議席を獲得する勝利を収めた。ラーマンは、イギリスへ独立のための使節団を派遣したが、イギリスは、断固としてラーマンの要求を拒否した。

1955年、マレーシアで初めて実施された総選挙(1955年総選挙)では、インド系勢力を代表するマレーシア・インド人会議(以下、MICと省略)にもアライアンスを呼びかけ、現在の国民戦線政権の原型が完成する。この選挙では、1959年までのマラヤ連邦の独立や全ての子供への初等教育の実施、マレー人特権の保護を維持するなどを公約に掲げ、UMNO単体では34議席、アライアンス全体では、52議席中51議席を獲得した(残り1議席は、全マレーシア・イスラーム党、以下PAS)。その結果、ラーマンが、マラヤ連邦の初代首相となった。

1956年、ラーマンは、再度、イギリスに独立のための使節団を派遣した。独立のために準備されるマラヤ連邦憲法が施行される1957年8月31日をもって、マラヤ連邦の独立を勝ち取った。また、アライアンス政府は、マラヤにおけるイギリスとそれ以外の外資の資産接収を行わないこと、イギリス軍のマラヤ駐留を認める条約を締結した。

ウィリアム・レイド卿率いるレイド委員会が、憲法の草案を起草した。連邦主義・立憲君主制といった概念が憲法に導入されると同時に、マレー人の特権の承認(これは、憲法3条、152条、153条で規定された)やイスラームが国教であることが明記された。マレー語が国語となったものの、華語・タミル語の教育も実施することが規定された。

こうして、1957年8月31日、ラーマンの手により、マラヤ連邦の独立宣言がなされた。
ラーマンの時代
マレーシアとシンガポール

1959年総選挙では、104議席中52議席をUMNOが獲得した(アライアンス全体では、MCA19議席、MIC3議席の74議席)。アライアンス全体が議会の絶対多数である3分の2以上を獲得したことは、政府の再編成と憲法改定を自由にすることを意味したが、アライアンスにとってすれば、この選挙は、内部対立で台無しになった選挙であった。というのも、MCAは、104議席中40議席を望んでいたからであり、ラーマンがこれを拒否したことで、MCAの一部がアライアンスを離脱したからである。

1961年、ラーマンは、マレーシア構想の実現に着手する。マラヤ連合に加え、サバサラワクシンガポールブルネイのイギリス植民地をマラヤに編入することであった。この背景には、マレーシア構想の実現が、とりわけシンガポールにおいて、共産主義活動をマラヤ中央政府の手で取り締まることが可能になることがある。また、シンガポールが単独で独立を達成した場合、マラヤの君主制を脅かす存在になりかねなかった。シンガポールの人口の大多数が華人系で占められていたので、そのバランスをとるために、そのほかの州のマレーシア編入を企図したものであった。

多くの交渉を経て、憲法で合意が得られた。たとえば、マレー人の特権が全てのブミプトラに与えられた。とはいえ、必ずしも全ての州がマラヤ連合9州(すなわち半島部マレーシア)と同じ権利を得たわけではない。1963年7月の交渉をもって、同年8月31日にマレーシアへ改編されることとなった。このマレーシアには、先述のブルネイを除く州が参加することとなった。(以下、マラヤをマレーシアと呼ぶ。)

ただ、フィリピンインドネシアはマレーシアの改編に対して反対した。インドネシアは、この改編を新植民地主義と非難し、フィリピンは、かつてスールー王国の勢力圏であったサバ州は自らの領土であると主張した。国際連合が、その調停に当たったが、インドネシア初代大統領スカルノはマレーシアとの対決姿勢を強め、東マレーシアに軍隊を派遣した。この衝突は、スハルトによる政権奪取(9月30日事件)で終焉を迎える。また、フィリピンは、外交交渉を通してマレーシアの国際的承認を実施した。

1963年のシンガポール州議会選挙において、アライアンスは、シンガポール・アライアンスを通して、リー・クアンユー率いる人民行動党と対峙する決定を下した。UMNOの政治家は、シンガポール内で、シンガポール・アライアンス(en:Singapore Alliance Party)のために、活発なキャンペーンを展開した。曰く「シンガポールに住んでいるマレー人は、華人系支配のPAPの下では、二流市民のように取り扱われるであろうと」と。しかし、UMNOの支援を受けたマレー人の候補者は、PAPの前に全員が敗北をする結果となった。

政治的な紛争が民族間で起きたことによって、1964年、シンガポールで、暴動が発生した(シンガポール民族暴動、en:1964 Race Riots)。マレー人のPAPの政治家であったオスマン・ウォクは、後に、暴動は、マレー人の「ウルトラ」と呼ばれるメンバーによって計画されたものと示唆した。

アライアンスのリーダー層は、また、リーの振る舞いにも警告を発し、リーは州首相にはふさわしくないと主張した。リーは、1つの主権国家の首相のように行動していると見られており、MCA出身の財務大臣であるタン・シュー・シンは、リーを「マラヤ(マレーシア)の歴史の中で、もっとも偉大で、かつ破壊的な権力者」と発言した。一方でリーは、ブミプトラに付与された特権を反対することで、マレーシアの一体性に挑戦していた。リーは「マレーシアは、誰が所属しているのか?答えは、マレーシア人である。しかし、誰がマレーシア人であるのか?私は自分がマレーシア人であることを望んでいる。しかし、議会内に私が座っている時々で、果たして私がマレーシア人であるかどうかを疑わざるを得ないときもあるのだ」と語った。

ラーマンは、シンガポールにマレーシアからの脱退を希望するかどうかを決定せざるを得なかった。シンガポール州内閣での多くの折衝を経て、シンガポールは、1965年8月9日に独立を宣言することが決定した。シンガポール独立達成後、UMNOのシンガポール本部は、シンガポール・マレー国民組織と改称した。
ラーマンの落日

UMNOは、シンガポールの連邦からの追放後は、政治的焦点をマレー人の特権政策の継続に置いた。具体的には、マレーシアの公用語であるマレー語において明らかとなるが、UMNOは、マレー語の国語化をなお強力にしようと試み、この政策は、野党勢力ではあるが、同じくマレー系を支持基盤とするPASの支持を得た。しかし、PAPのマレーシア支部から名称を改称した民主行動党(DAP)は「マレーシア人のマレーシア」をスローガンに、ブミプトラの特権にこの政策に反対の姿勢をとった。また、1968年には、マレーシア人民運動党(グラカン)が結成され、DAPと同様にUMNOに対して反対姿勢を採った。このような情勢の中で、翌年、総選挙が実施された。

民族間の緊張が最も高まった際に、1969年総選挙その直後に、マレーシア史上最大の民族衝突である5月13日事件が発生する。詳細は、それぞれを参照すること。

マレーシア国王は、事態を重く見て、議会開催の延期を決定した。また、東マレーシアでの選挙も延期された。ラーマンは首相として政権を維持していたが、副首相であるアブドゥル・ラザクへの政権交代への準備は着々と進み、もはや、内閣の飾りの状態に祭り上げられた。求心力の低下は明らかとなっていた。

5月13日事件に際して、総選挙で議席を失い、ラーマンにリーダーシップを批判したマハティール・ビン・モハマドは、ラーマン批判の書簡を送った。マハティールは、マラヤ大学の教授とラーマン追放のキャンペーンを展開した。


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